デイヴィドソンは、「まず人間がいて、そして言語がある」と考える。逆ではない。言語規約説や規範説など一切の「言語=実体説」をぶっとばして、「向かい合って発話を交換している私とあなた」(p91)という根源的場面に定位し、二人のコミュニケーションの道具として言語を捉える。絵は対象と似ていなければ世界を表現できないが、文は、それが「真である」という一点で世界と結びつく。言葉は真でさえあれば、世界と似ていなくてもよいのだ。この自由さにこそ言葉の力の源泉がある。
デイヴィドソンは、T文による「真理条件的意味論」といわれるものを核に、フレーゲの洞察から出発しながら、フレーゲと違って、他者と共有された「意義Sinn」の存在を仮定せずにコミュニケーションを考える。「分かり合いたい!」という二人の欲求さえあれば、後はすべてついてくるのだ。つねに「ぶっつけ本番で、共感、好み、幸運、機知などを頼りに相手の言葉を解釈し合う」(81f)ところに、言語の本来の姿がある。二人がそのつど創り出す「ぶっつけ本番」性という言語観の素晴らしいさ!なるほどデリダとも似ている。