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デイヴィドソン ~「言語」なんて存在するのだろうか シリーズ・哲学のエッセンス

価格: ¥1,050
カテゴリ: 単行本
ブランド: NHK出版
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本当の入門の入門 ★★★★☆
本邦初のデイヴィドソン入門書で、基本的にかなりわかりやすいと思います。
僕は理解はともかく大陸系の哲学書は結構読んだのですが、英米系の哲学書は殆ど読んでないと言っていいくらいの人間です。
そんな人間が読んでもすんなりと理解出来るように平易に書かれています。

今、別のデイヴィトソン関係の本を読んでいますが、
この本に書かれてあるのはデイヴィドソンの思想の一部であって全体ではないので、詳しく知りたいという人には向いてないと思います。
ただ導入としての役割はこの本は十分に果たしていると思うので、現代の言語哲学に興味がある人は読んでみてください。

詳細は以下

本書は大きく分けて三つ分けられます。
 ・真理条件的意味論
 ・マラプロピズム
 ・言語非存在論

まず真理条件的意味論について、本書に出ている例ですが『雨が降っている』という言葉があったとします。
今、我々が“雨”という単語の意味を知らなかったとしても、事実としてその場で雨が降っていれば、“雨”という単語の意味を知らなかったとして事実から類推してその意味を大体理解することが出来ます。

デイヴィドソンは言語によるコミュニケーションにおいて第一義的に必要なのは意味を知っている。
ということではなくて、言ってることと事実との整合性から意味を知ることが出来ることが大事だと言っています。

そして、このような解釈に前提となるのは相手の言っていることが事実であると信じることです。
何故なら、もし雨が降ってないのに『雨が降っている』と相手が言った場合には間違えた意味を掴まされることになります。

しかし、デイヴィドソンは本当に正しい意味を知りたければウソの情報の経験も必要だと言います。
つまり、相手の言っていることを理解したいのであれば、否応なしに相手の言っていることがまず事実だとして信用しなくてはいけない。
彼はこれを寛容の理論と呼ぶようです。


マラプロピズムについて
マラプロピズムとは言い間違いのことです。
家族や親しい友人と話しているときに少し言い間違いをしても、彼等は何の苦労もなくその言葉を理解してくれます。
逆にあんまり親しくない人や初見の人と話しているときに言い間違いをしたら、理解してくれません。
デイヴィドソンは「言語」そのものを知っていても、その人のことを知っていないと「言語」を理解していても、その人の言葉の意味を理解できないといいます。

例を挙げれば江戸っ子の人が『コーシー』と言った場合のときを考えます。
江戸っ子はヒと発音することが出来ず、ヒをシと発音するということを知っていれば、今の言葉はすぐに『コーヒー』と変換されます。
逆にこの事実を知らなければ、コーヒーという単語の意味を知っていても『コーシー』が何指すかわかりません。

つまり、「言語」の知識があっても十分な理解が得られないとデイヴィドソンは言うわけです。


これらの理論から「言語」非存在論が導かれます。
言葉の正しい用法というものは存在しない、言葉は時と場合、人に多くを依存し、それらによってかなり変わってくるという結論にたどり着きます。
これが「言語」非存在論です。

長く、かなり粗い説明(しかも理解が正しいか不明ですwww)でしたが、大きくわけて本書の内容は以上です。
また最後の方に本当に少しですが、デリダとデイヴィドソンの関連についても書かれています。
あくまでもデイヴィッドソン哲学のエッセンスのひとつ ★★★☆☆
 内容は、ほかのレビュアーが言うとおり、デイヴィッドソンの「言語学者や哲学者が言うような意味では、言語なんて存在しない。」というラディカルな主張の内容を平易に解説しているものとなっている。導入として言語哲学全般の問い、「意味とは何か」について解説され、デイヴィッドソンの「真理条件的」意味論がどのようなものであるかが哲学史的面からと内容的側面から解説され、最後に、デイヴィッドソンの意味論プログラムからコミュニケーション哲学への移行が述べられる。
 デイヴィッドソンの「言語」の否定はいわゆる私たちが話したり書いたりしている日本語や英語といった言語の存在を否定しているわけではない。かれはコミュニケーションにおいては伝統的に哲学者が考えてきた「言語の規約説」ではうまく説明できないと述べているのである。たとえば私たちは日常、他人のいい間違いでさえその言葉の意味を瞬時に理解してしまうことがあるのである。デイヴィッドソンはこのような事態は「規約としての言語」を考えるのではなく、「初期理論」と「経過理論」を用いて、原理的に説明しようとするほうがうまくいくと考える。
 この本はたしかに理解しやすく導入本としては適切だと思う。でもこれはあくまでもで一ヴィドンの哲学プログラムの一部であるは注意が必要である。かれは言語論だけではなく、「解釈」という立場から相対主義的な認識論を批判したり、また伝統的な哲学の問題である、合理性、一人称特権の問題などに解決を与えようとしている。
 このようにこの本でのデイヴィッドソンの主張はあくまでかれの一部であるから、もしかれの作品に興味を持ったならば、デイヴィッドソン自身が主張しているように全体論的に読んでみるのがいいと思います。
自由の風が吹くデイヴィドソン ★★★★★
素晴らしい本が現れたものだ。デイヴィドソンは難解で、専門家以外にはその本当の面白さがよく理解できない。彼の論文は、小さな技術的論点の検討から始まりながら、ある時点で突然視界が開けるような爽快感があるのだが、評者はこれまで「メタファー論」を除いてその魅力がよく分らなかった。その欠落感を本書が埋めてくれた。

デイヴィドソンは、「まず人間がいて、そして言語がある」と考える。逆ではない。言語規約説や規範説など一切の「言語=実体説」をぶっとばして、「向かい合って発話を交換している私とあなた」(p91)という根源的場面に定位し、二人のコミュニケーションの道具として言語を捉える。絵は対象と似ていなければ世界を表現できないが、文は、それが「真である」という一点で世界と結びつく。言葉は真でさえあれば、世界と似ていなくてもよいのだ。この自由さにこそ言葉の力の源泉がある。

デイヴィドソンは、T文による「真理条件的意味論」といわれるものを核に、フレーゲの洞察から出発しながら、フレーゲと違って、他者と共有された「意義Sinn」の存在を仮定せずにコミュニケーションを考える。「分かり合いたい!」という二人の欲求さえあれば、後はすべてついてくるのだ。つねに「ぶっつけ本番で、共感、好み、幸運、機知などを頼りに相手の言葉を解釈し合う」(81f)ところに、言語の本来の姿がある。二人がそのつど創り出す「ぶっつけ本番」性という言語観の素晴らしいさ!なるほどデリダとも似ている。