インターネットデパート - 取扱い商品数1000万点以上の通販サイト。送料無料商品も多数あります。

証言・フルトヴェングラーかカラヤンか (新潮選書)

価格: ¥1,365
カテゴリ: 単行本
ブランド: 新潮社
Amazon.co.jpで確認
カラヤンファン,BPOファン,ティンパニファンにお勧めの良書 ★★★★★
 カラヤン生誕100年の2008年に刊行された,ベルリンフィル (BPO) の元団員たちへの取材によるカラヤン論。カラヤン信奉者の言葉からは,たゆまぬ自己鍛錬と妥協のない入念なリハーサルで最高の音楽を作り上げた芸術家,そして団員の技能向上のために時間を惜しまなかった人格者としてのカラヤン像が見えてくるが,反対者の言葉からは,音楽よりも金儲けの才能に長け,自分だけがスポットライトを浴びることしか許さなかった傲慢で強権的な独裁者としてのカラヤン像が浮かび上がる。どれもがカラヤンの一面を表しているのだろう。支持者・不支持者に共通する評価も浮き彫りになっており,カラヤンのオペラに対する評価は高いが,映像作品に多用された不自然なハメ込み映像や,晩年の意固地な暴君のような振る舞いに対する評価は,おしなべてネガティブだ。全体として信頼性の高いカラヤン論になっていると言えるのではないか。
 個人的に面白かったのは,15年間ほど同時期にBPOの主席ティンパニストとしての地位を共にした,フルトヴェングラー信奉者のテーリヒェンとカラヤン信奉者のフォーグラーの発言だ。テーリヒェンのほうが知名度は高いが,カラヤン指揮による70年代後半以後の録音や80年代前半のコンサートで演奏しているのは,実はほとんどがフォーグラーだ。硬めのマレットによる鋭いアタック音,マシンガンのような高速ロール,早めの打点でオケを引っ張っていくリズム感が特徴で,重々しいリズムを引きずるテーリヒェンとは対照的だった。テーリヒェンのカラヤン批判は1984年の著書の延長線上にあるが,対するフォーグラーからまとまった発言を引き出したのは,この取材の功績と言えるだろう。容赦ないテーリヒェン批判には驚かされるし,カラヤンに重用されたがゆえの苦労も語られていて興味深い。
 カラヤン,BPO,そしてティンパニに興味のある人にお勧めしたい本である。
複眼的インタビュー ★★★★★
カラヤンとフルトヴェングラーという、二人の相反するマエストロを語る事により、時代と歴
史と、語る人自身の生き方も同時に語る事になる、大変興味深い内容でした。
指揮者もスター一般も偶像信仰 ★★★☆☆

朝日新聞の音楽欄(読書欄ではなくて)に紹介されていたので読みました。

偶像をつくる仕事
カラヤンについて、実力もさることながら、あの風貌や「カッコ良さ」に対してファンとジャーナリズムが偶像を作っていく様子がよくわかります。カラヤンのDVDには、音を別に録音したものに、後から「演奏している振りをしている」ものが極端に多いとの証言をきいて呆れました。北京オリンピックで話題になった「口パク」と同じです。オーケストラ曲の映像に興味を抱かなくてさいわいでした。「指揮者がいなくてもオーケストラは演奏できる」と何人かの楽員が述べて、それは多分本当でしょが、でもそれを長期間にわたって実現したオーケストラはありません。脳死の身体は、長期間にわたっては生きられないのと同じです。
本書はカラヤンを嫌いにする効果があると感じますが、フルトヴェングラーに対する思い入れもそれとあまりちがわない「偶像崇拝」と感じます。敢えて言えば、フルトヴェングラーは70歳で亡くなって老害をさらさずに済んだのに、カラヤンは90歳近くまで活動を続けしかも録音や映像で記録を残して周囲に災難を振りまいた点が大きな差で、「カラヤンの映像には指揮者の顔ばかり登場」する由。

演奏家への思い入れ
本書で、「演奏家への思い入れ」あるいは一般に「スターへの思い入れ」の無意味さを再確認しました。私はクラシック音楽好きですが、演奏家への思い入れは強くはありません。ベートーヴェンの交響曲はカラヤンのステレオLP 全集を60年代によく聴きましたが、それしか持たなかった故です。現在聴くのは5番はカルロス・クライバー、4番と6番はワルター、英雄は多数もっていますが、古いウラニア盤のフルトヴェングラーは「なじみ」で聴きます。9番は、秋山和慶氏と東京交響楽団を8年間ほぼ毎年聴いているのは、自分では意識していませんが、多分「好き」なのでしょう。
指揮者では、ブルーノワルターが好きで田園も4番もあのやわらかい音が好みですが、これも「馴染み」な故です。クラシック音楽を聴き始めた中学生の頃、ワルターとウィーンフィルという現在でも伝説的に「名盤」とされる演奏(田園、未完成、ジュピター、アイネクライネなど)で身に着けましたから。一方、ワルターがピアノを弾いたモーツァルトの協奏曲も伝説的ですが、こちらは最近イ短調の曲(K466)を聴いて下手くそなのにがっかりしました。フルトヴェングラーへの思い入れが強くない理由の一つは、私がクラシック音楽を身につけていった高校生から大学初年度にレコードが乏しかった故で、英雄とシューベルトのハ長調交響曲を今も愛聴するのはやはり「昔なじみ」故です。本書に何度も登場するシューマンの第4交響曲は、私もしっかり記憶に残していますが、残念ながら手元にはありません。
カラヤンは一度だけ実際の演奏を聴きましたが、実演とLPで親しんだベートーヴェンよりも、私にとっては小物をうまく聴かせてくれる指揮者です。
ここ数年に印象の強かった演奏会として、マーラー1番(サントリーホール)、幻想交響曲(東京芸術劇場)、ブルックナー7番(武蔵野文化会館ホール)など、どれも大仕掛けな音楽ですが、オーケストラや指揮者は覚えていません。演奏家で記憶に残っているのは、ディーナ・ヨッフェさんと三村和子さん(いずれもピアノを楽しそうに弾いた)、林美智子さん(ソプラノ:声も姿も美しい)、ずっと昔に聴いたルービンシュテイン(堂々としていて、弾く姿が見事)などです。
本書で「楽員はいずれもしあわせそう。気楽な立場で日本も何度も訪れて歓迎され、異文化にもふれたのだから。責任が重い指揮者やビジネスマンと比べると、楽しい仕事なのだろう」と述べているのに納得しました。[諏訪邦夫]
テーリヒェンへのレクイエム ★★★★★
タイトルからして、かつて物議をかもした書物の著者でもあったテーリヒェンへのオマージュであることは明白なのですが、そのオリジナルに決して引けをとらないどころか、かえって真実を洗い出す手助けとなるかのような書物です。

もちろんサンプルのとり方にも「現存する、元ベルリン・フィルのプレイヤーの中で、取材をオーケーした人物」という無視できないバイアスがかかっているのですから、客観性には限界があります。しかしながら、あの戦中戦後を体験した楽団員本人たちから、いまなおフレッシュな感想を引き出し得た、という事実は動かしがたい価値をこの本に与えています。

そこにあるのは、フルトヴェングラーと対をなすかのような政治的無邪気さであったり、オーケストラとは指揮者の忠実な楽器でありさえすればよいのだというプロフェッショナリズムであったり、そうはいっても指揮者なんてお飾りで、本当に演奏しているのはオーケストラなのだというプライドだったり、ずいぶん稼がせてもらった人の悪口など言えない、という「勝ち組」の美学だったりします。そして、「世界最高のオーケストラ」と言われたベルリン・フィルが、たゆまぬ技術の研鑽の末に、団員のポストを手に入れ、そこでの生活を維持するために「世界一」を演じてきた、生身の人間であったことに思い至るのです。

カラヤンとフルトヴェングラー、このかつては激しく対立し、正反対の音楽的主張をもっていたかに見えた二人の巨匠が、さまざまな視点から異なる光を当てることで、微妙な像の揺らぎを見せます。そこに何を見いだすか。最終的にそれは、読者にゆだねられていると思うのです。
中途半端 ★★★☆☆
著者はフルトヴェングラーにもカラヤンにもさほど興味を持っていないようだ。編集者から最低限、読んでおくべき資料、聞いておくべきCDを渡され、その後インタビューに臨んだのだろう。有名な演奏の話が出てもほとんどついて行けないことから、それは推測できる。文才も並としかいえない。「国の特徴がどんどん希薄になってゆくことが、国際化なのだろうか」などとまじめくさって書くことは普通の感覚ではできない。政治にもまったく関心がないらしく、「…彼(フルトヴェングラー)は、政府がどんな理念を持ち、何をしているかということには、ほとんど関心がなかったのではないか」と、平和なことをのたまう。ナチス政治に翻弄されらがらも、自ら理想とする演奏をし続けようとした、W・Fの苦悩を知ろうともしない人間にインタビューをさせるとは…。戦時下、占領地への演奏旅行は、貴重な物資を調達できるので、歓迎すべき任務だった、とも書いているが、戦争から60年後の述懐を、それほど単純に受取っていいものか。不快を催すような断定、下らぬ饒舌、無知は書きだすと限がないが、その一方、女だから聞き出せた話もある。ヴァインスハイマーやフォーグラー氏の話す、北京公演などの逸話は、カラヤンの人間くさい一面を知ることができ興味深い。