天下分け目の決戦!!石田三成の見事さ。
★★★★★
‘関ヶ原’・・・・美濃平野の各街道の交わるあたりで、
東西約20万の軍勢が激突しました。時に慶長5年9月15日。
我々は家康公の勝利と結果を知っています。
ここは、石田治部少を敢えて認めたい処ですね。《へいくゎい者》と
巷間伝わり、その狭量ゆえに人心が離反する・・・と。
徳川実紀あたりの記述では、致し方ないのは分かってはいるのですが、
しかしながら、その気宇は宏大で意気は軒昂。加えて豊臣政権の帷幕で
輜重の重責を担い、類まれな吏才は太閤も一目置く存在だったわけです。
英雄といっても過言ではないでしょう。
本当に狭量ならば大谷吉継も応えないだろうし、自らの節を曲げず、
豊家に殉じる姿勢は戦後の佐和山での一糸乱れぬ石田家の奮闘ぶりも含めて、
見事という他ありません。
花も実もあるこの‘名将’を一番理解していたのはむしろ家康公だったでしょうね。
公の天下統一への大き過ぎる‘餞’だったと思います。
それと対照的なのが、毛利一族の去就でした。秀頼を擁し、
屈指の兵力を持しながら時日を空費するのみでした。
これでは、120万石を全う出来ないわけです。
しかし、依然として牢人たちの‘希望の塔’大坂城は聳え立ち、
秀頼親子も何ら変わることはありません。
1日で終わった‘関ヶ原’・・・・・。
むしろ戦後の処理の難しさを山岡先生も筆に託しています。