活動家としての凄みのある文章
★★★★★
まだ学問が政治的な力を持っていた時代。赤松は、既存の民俗学(柳田民俗学)が排除したものを3つあげる。それが、性、差別、犯罪である。
差別という繊細にして野蛮、秘匿されやすいわりには普遍的な命題に対し、著者は一層繊細なアプローチを心がけている。
「常民」や「民主化」「近代化」といったキーワードによって物事を単純化して、問題を隠蔽することに警鐘を鳴らす。
事態の多様性を損ねずに受容し、複雑な認知をすれば、上下に短絡に差別可能にする境界線は曖昧になるのだ。
万能で安易で簡単な処方箋など存在しないのだ。そうやって丹念に、臨床的に個なるものを見つめていくしか。
農村社会を革命する時代に、なぜ民俗学だったのか。
赤松の著作は、民俗学に見せかけて革命運動史になっている。むしろ、運動の身を隠す仮衣としとの民俗学という面さえ見える。仮の身の行商であり、行商という仮面の聞き取り調査。
著者も書いているとおり、その時代を生きていない私には、私と同時代の人が想像して描く戦前より、実感がわかないほどはるかに遠い世界の様相だった。
経験に根付く野太さと強靭な理想と
★★★★★
赤松氏はいうまでもなく民俗学の泰斗だが、本書は期待を裏切らない濃い内容の論集である。
氏は戦中・戦後とみずから運び屋や、闇屋と思われる仕事、所謂流浪・底辺の生活をさまざまに経験した。研究対象は「柳田流」民俗学で愛された正規の社会制度の枠内で生きる農民よりももっと「得体の知れない」生活者たちである。その観察の視座には、彼らを研究対象と呼ぶにはもっと密着したものがあり、アカデミックで論理的・理想論的民衆像をしたたかにひっくりかえしてみせる。その一方、その文章の内には現代では懐かしさを覚えるほどの純粋マルキシズム精神を感じる。その意味では彼もまたある種の理想主義者であるように思われる(もちろんそこにこの作品の時代的限界を指摘する人もいるだろうが)。アウトローの世界を実体験から描く近年の著作者には宮崎学がいるが、彼のように主流を生きる人々へのアンチ意識をことさらに煽ることもない、淡々とした味わいがこの著作の持ち味である。
こうした内容とともに、正規日本語文法からは逸脱しているとすら言いたい独特の言い回しが、特に民俗学を専攻するものでないものをも力強く彼の世界へに引き込む好著でろう。