アンナ夫人と作者の絶対的な愛に包まれた、至福の小説
★★★★★
数奇な運命をたどった小説だ。ロシア系ユダヤ人で病理学者であった作者は、ソ連からの亡命を許されず、この小説のみがアメリカに渡り、英訳されて出版されたが、作者はそれを見ることなく亡くなり、作品も話題にならなかった。ところが近年スーザン・ソンタグが古本の中から発掘して絶賛し、新版となって世に出た……という前ふりで、「はいはい、そういう小説なのね」と高を括っていたのだが……素晴らしい小説でした、これ。
「私」はドストエフスキーの妻アンナが新婚時代に速記でつけていた日記を入手し、これを読みながら汽車の旅をしている。プルーストばりの息の長い文章は、ドレスデンに新婚旅行する25歳差のドストエフスキー夫妻を追うが、「私」の想念は、夫を見つめるアンナ夫人の視線から、窓外の冬景色へ、シベリア流刑時代のドストエフスキーへ、ドレスデンの絵画館の「サン・シストの聖母」の前へ、時間軸も空間軸も自在に移動する。バーデン・バーデンでの賭博熱、ツルゲーネフとの確執、周囲のドイツ人たちへの苛立ち……天才作家の姿は息詰まるまでに生々しくリアルだ。そして、夫の全てを包んで受け入れるアンナ。
作者は、あれほど弱者の側に立ち続けたドストエフスキーの、理不尽なまでに紋切型なユダヤ人差別を理解できない。なのに彼に惹かれ続け、作品のページをめくり続ける。その作者の姿が、アンナの姿に重なる。これは、ドストエフスキーを愛さずにはいられない人のための物語なのだ。
「サン・シストの聖母」の複製画のかかった部屋のソファーでのドストエフスキーの死と、記念館となったその部屋を訪ねる「私」の重なるラストまで、幸せに貫かれて一気に読んだ。
134ページの、ドストエフスキー文学に対する考察は胸をうつ。そんな夫への夫人の献身的な愛に触れ、ドストフエスキーがなぜイワン・カラマーゾフだけでなくゾシマ長老やアリョーシャを生み出したのかが実感できた。
ドストエフスキイの生活と「私」の生活
★★★★★
借金取りから逃れるためにヨーロッパを旅するドストエフスキー。彼と旅をする最後の妻アンナ。そのアンナの日記を懐に、文豪の描いた街を彷徨う私。これらの視点が交錯しつつも連綿と、ほとんど改行のない文章に綴られている。所謂、前衛文学のスタイルだが、そうした印象は読む限り些かもない。ダッシュで繋げられる文章は、地に沁みる水のように読者の中に入ってくる不思議にリーダブルなものであり、小説を読む喜びに充たされるという気がする。
ドストエフスキーの生活者としての過剰が、若い妻の日記と「私」を介して、ほとんど痛ましいまでに続いていくが、私の彷徨には、文豪への限りない敬愛と文豪の思想(反ユダヤ主義)への複雑な思いが交錯し、それもまた独特の哀切とユーモアさえ醸し出している。「私」はユダヤ人である(著者も)。
巻末には、このソヴィエト時代の流通せざる傑作の発見者、スーザン・ソンタグの遺稿が掲載されている。この解説は文章としてはそれほど面白いものではないが、未知の作家の経歴や本書創作のあれこれが書いてあって参考にはなる。ソンタグの手放しのオマージュも微笑ましい。