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同時代も歴史である 一九七九年問題 (文春新書)

価格: ¥798
カテゴリ: 新書
ブランド: 文藝春秋
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「近代国家」と「宗教」 ★★★★★
題名の一九七九年問題というのは、一九七九年に近代的世界観に限界がきたということのようです。簡単に説明すれば、国家と宗教、国民と信仰、政教分離の問題が一九七九年に再び問われだしたということなのですが、それだけに根が深く、古くて新しい問題だと思います。

日本では「国家」と「宗教(神)」の関係を、あまり意識せず暮らしていますが、海外では宗教が生活の基本にあり、国家と宗教の関係が「近代国家」の根源にあるということが、よく分かります。

坪内氏の指摘に納得できるかは別にしても、この本は近代国家、宗教、自由、戦争、愛国心、歴史などの考察が載っており、考えさせられる本だと思います。
前書同様、読み応えあり ★★★★★
好著『一九七二』に続く著者の年代記(クロニクル)的評論集。(前書は「諸君!」2000年2月号から2002年12月号の連載であり、本書収録の諸論考は同誌2003年6月号から2004年11月号に断続的に連載されている。)個人的には、参着している文献のさわりの部分を対比引用しながら悠々と論を進める坪内氏の叙述方法が好みであり、本書も大いに思考を刺激される好著であった。わけても、「アンティゴネ」を題材に「善き個人」と「善き市民」の相克関係(二元論的思考)について考察した第1編や、バーリン伝を著したマイケル・イグナティエフ(その後、ハーバード大教授からカナダ連邦下院議員に転進)の著作を題材に「市民ナショナリズム」と「民族ナショナリズム」の緊張関係や「愛想づかしの誘惑」に起因する悲劇などを描いた第8編が印象に残ったが、最も読み応えがあったのは、いわゆる太平洋戦争時における平野謙の「傷」即ち彼の戦争協力的言論活動(日本文学報国会)にまつわる人間模様を分析した第2編であった。なお、本書の読み方だが、最初から順に読んだのでは「一九七九年」の持つ含意を把握しながら、各編の理解を進められない憾みがあるので、まず最終編を読んでから、改めて最初に戻るのがよいように思う。(それにしても、坪内氏の本は、一度読むと引用されている書物なども全て読みたくなってくるので、本代が幾らあっても足りなくなってしまうのが(嬉しい)頭痛の種ではある。)
買いですが。 ★★★★☆
とても面白い一冊ですが、この作家がこのテーマで書くのに新書では物足らなさばかりが残ります。せめて「1972」くらいのヴォリュームが欲しかったです。あるいは、本書はガイダンス的な一冊に過ぎなくて、このあと大著が待っていれば嬉しいのですが。
現代の事象と古今東西の出来事のみごとなマッチング ★★★★☆
 「同時代も歴史である」ってのは「歴史も同時代である」ってのと同義である。この連作評論は“アクチュアルな現代の事象の中に、過去の事象を参照しながら、歴史を見なければならない”というコンセプトの基に書かれている。もう過去→現在→未来って直線的に時間の流れていかないポスト・モダンの時代だからこそ、過去の参照が重要ってお題目はよくわかる。この著書には、その先のセンスがある。DJが今の気分に合わせて昔のお皿をセレクトするように、この著者は現代の事象と古今東西の出来事をマッチングしていく。「転向」「ネオコン」「全共闘」そして「一九七九年問題」...こうして紐解かれると、過去と現在と未来がまさに地続きであることがよくわかる。それは直線ではなく平面的なイメージだ。それにしても、どれも目の付け所がいい。この人はイデオロギー的にポジショニングされることを注意深く回避していて、そこら辺の頭の良さを感じさせる。自分の好きなことを好きなように表現する自由をキープし続けている。山本夏彦を取り上げるあたりのセンスもシブい。
 とは言え、僕らも、リアルタイムに生きてきた過去をどう語り継いでいくか?だよな。過去を知らない若い人に、その時代を語るとき、どうしても都合よく偽史として語ってしまうということはありがちだ。そんな前時代的な語りではなく、もっとライトに、今の出来事のように語ること。それが出来ればいい。もちろん、その時代を生きていない人の語りにも耳を傾けたい。この本は、そんな“歴史”に対する新たなパースペクティブを提示してくれて、とても刺激的な読み物になっていると思う。
切断線がいっぱい! ★★★★☆
 書名中に「一九七九年問題」とあるが、そこに直接触れるのが最終章。79年に起きたイラン革命とソビエトのアフガン侵攻という「二つの出来事は連動し、歴史の大きな(何百年という単位の、いや千年を越える単位であるかもしれない)大転換であったことは明らかである」(p241)。冷戦で対峙した自由主義も共産主義もフランス革命由来の近代の産物である。しかし79年は「その近代的な歴史観では『世界』をかかえきれなくなった、そういう『歴史』がはじまった(あるいは幾つかの『歴史』が交差することになった)年だった」(p248)、と著者は論じる。ま、要するにポストモダン話なんですけど。
 私はその主張にあえて反対しないけれど、著者の口振りがウォーラーステインの「68年革命」論と似すぎているのが気にかかる。本書には全共闘世代と団塊世代の微妙な差異から語り起こされる68年革命論も収められており、著者が先行する議論を意識していないわけがない。とすると、あれこれ年代を挙げて歴史的断絶を言い立てる著者の議論は、もしやまるごと、たちの悪い冗談じゃないかと思ったりする。
 やや韜晦を孕んだ、奥歯にモノの挟まったような語り口にイライラさせられる面もあるが、収められたウンチク話はいずれも興味深い。個人的には「今さらネオコンだなんて」が勉強になった。「『一九六八年』を担ったのは誰だったか?」を、山本義隆や秋田明大ではなく橋本治こそ「1968年」の人物ではないか(p124)、などと締め括って論点を鮮やかに印象づける手際も、著者のエッセイストとしての力量を示していると思う。なんか、ちょっと悔しいけど…