インターネットデパート - 取扱い商品数1000万点以上の通販サイト。送料無料商品も多数あります。

一九七二―「はじまりのおわり」と「おわりのはじまり」 (文春文庫)

価格: ¥710
カテゴリ: 文庫
ブランド: 文藝春秋
Amazon.co.jpで確認
「今どき」の若者との対話の土台つくり ★★★★★
歴史を共有していない若者たちとの間に橋を渡そうとする
著者の姿勢に感動を覚えました。

私自身は東京オリンピック後の生まれで、物心ついた頃には
新幹線も、東京タワーもテレビも冷蔵庫も全部そろっていた世代。
高度経済成長のドライブ感はなくなったものの、あとはバブルまで
まっしぐらの「貧乏を知らない子供たち」だ。

著者の判定によれば私は著者と歴史をある程度共有できている
世代ということにはなるのだが、著者が描く1972年の出来事は
知らないことばかりで、新鮮だった。

特に浅間山荘事件に関しては大雑把な知識しかなかったのだが、
「水筒」に関する具体的な話を知って、事件の恐ろしさを以前より
実感することができた。
・・・第十二回 二人の「兵士」の二十年振りの「帰還」・・・
が特に面白かった。横井庄一と重信房子を並べて論じることで
戦後から1972年までの時代と1972年から現在までの時代の
違いを浮き立たせるこの章は特に素晴らしい!!

また、新幹線以前の東京から京都・奈良への修学旅行がどのように
行われていたかというありでは、確かに豊かで便利になったかわりに
失ったものは多いかもしれないと感じた。

いくら経済成長戦略とやらを掲げたところで、成長しようのない地点まで
来てしまっているかもしれない日本にとって、ここまでやってきた直近の
歴史を知ることは非常に有意義であると思います。

昭和三十年代主義―もう成長しない日本
歴史とは何か ★★★★★
この本を一言で言い表すとどうジャンル分けされるのだろう。

 『歴史ノンフィクション』という括り、『文化評論』という括り、『時代評論』という括り。
そのどれもが一面的には正しく、また一面的に的外れな気がする。
 1972の「歴史的事実」は記載されている。
だが、類書にはない新たな「事実」が明らかになるわけではない。
 1972に時代的転換期を読み取っている。
でも、そのパラダイムシフトが系統だって記述されてはいない。
 
 本書の著者は、「感受性」を頼りに1972の個別的な事象から時代の空気を思い出す。


 例えば、連合赤軍事件からは、フェミニズム的な観点から「戦前的なもの」の微妙な距離感の差を感じ、
次の記述へとつながる。
 「今、十四歳である少年は、逮捕される前の重信房子の姿を、
つまり『亡霊』を目にしても誰も『ぎょっと』しないだろう。
 けれど、一九七二年に十四歳だった私は、その三十年も前に起きた戦争の記憶を共有していた。
戦後、もう二十年もたっていた。しかし私の小学校時代、戦争の記憶は、あちこちに残っていた。
同級生には広島や長崎で被爆した親を持つ少年や少女がいたし、街にで出れば常に傷痍軍人の姿を目撃した。
八月一五日が近づくと、毎年、今では考えられないほど戦争に関する多量の映像がテレビから流された。」(P176)

 ロックミュージックの変化から、「地方」の消失を感じ、次のように述べる。

「『ぴあ』の便利は人々に多くの物を与えてくれた。
いや、人々が『ぴあ』のその便利を強く支持したからこそ『ぴあ』は巨大雑誌へと(さらには巨大産業へと)成長していったわけである。
 だが、そこで失われた物もある。
 経験の一回性である。未知の物と出会う喜びと言っていいかもしれない。」(P433)


 本書の結論を一言で言うと、「おわった」のは歴史・アウラ・地域性という「メインカルチャー」であり、
「はじまった」のは今日的な「サブカルチャー」であるとまとめること簡単だ。
 少々の年代のズレを認めれば、このような主張をする評論は他にも多くある。
 だが、本書は、「まとめ」が纏う空気感を477ページのボリュームで余すことなく伝える。
物事から感想へ感想から解釈へ、そしてまた解釈から物事へ。
常に変化する著者の感受性に添って、1985年生まれの私は知らない間に1972を実感していた。

 「自分の生まれる十年前の出来事を知り、その古さを把握することによって、
 20年前、30年前さらには100年前のことに想像力を働かす。
 言葉にすると理屈っぽくなってしまうけど、それは決して難しいことではない。
  人々はずっとそうやって、自分の中に歴史意識を抱え込んできたはずだ」(P12)

 すべてのページを読んだとき、私たちは再びこの記述を思い出ずにはいられないだろう。
 大切に抱え込まれた著者の歴史意識は、「歴史意識の変化、さらに言えば歴史の断絶」を生きる私たちを激しく揺さぶる。
「一九七二」と「大衆化社会」 ★★★★★
この本は連合赤軍、ロック・コンサート、テレビ、情報誌、日本列島改造論などをとおして一九七二年を描いた本です。坪内氏が一九七二年にこだわり、一九七二年を描く理由は一九七二年が日本が本格的に「大衆化社会」に突入していった年だからです。

価値観が多様化したため、価値が相対化し、あらゆるものの価値が低下していく時代。巨大な共同体が出現したため、小さな共同体が淘汰され、共同体を失っていく時代。つまり、多様な価値観の社会に自由の名の下に放り出された個人が、テレビや情報誌などの情報の洪水(商業主義、消費社会)により個性を失って「均一化」していく時代であり、それにより歴史を共有できなくなっていくのが一九七二年だという指摘です。

坪内氏はそれが良い、悪いという判断はしません。ただ、何かがはじまれば何かがおわり、何かがおわれば何かがはじまる。何かを得れば何かを失い、何かを失えば何かを得る、ということを言っているのだと思います。(その点は誰も否定できないと思います)

その点に注目すれば坪内氏が一九七二年にこだわった理由が理解できると思います。
嗚呼、連合赤軍 ★★★★★
最近、テアトル新宿で若松孝二監督の映画『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』を観たのは、ひとえにかつてこの一書を読んだが故。数多くの資料を巧みに再構成しながら遠山美枝子の悲劇をはじめとする凄惨な連合赤軍の思想(あるいは無思想)と行動(あるいは発情)を描いた各章は今読んでもやはり圧巻。秀逸な同時代史として、一読を勧めたい。
嗚呼、連合赤軍 ★★★★★
最近、テアトル新宿で若松孝二監督の映画『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』を観たのは、ひとえにかつてこの一書を読んだが故。数多くの資料を巧みに再構成しながら遠山美枝子の悲劇をはじめとする凄惨な連合赤軍の思想(あるいは無思想)と行動(あるいは発情)を描いた各章は今読んでもやはり圧巻。秀逸な同時代史として、一読を勧めたい。