ささやかな、しかしなかなかに忘れ難い事件や経験を描く
★★★☆☆
一天にわかにかき曇るとものすごい強風が吹き募り、大粒のにわか雨が降りはじめたある夕べ、突然家がつぶれるのではないかと思うほどの衝撃があった。
慌てて家族全員が店の表に飛び出してみると、てらこ履物店の傍らに立っている木造の大きな電信柱がぽっきりと折れ、見たこともない1台の自動車が巨大な褐色のカブトムシのように木の根元に停まっていた。
米軍のジープだった。ジープのそばには3名の兵士がヘルメットから雨しぶきを滴らせながら呆然とたちすくんでいたが、やがて真ん中の真黒な顔をしたいちばん背の低い兵隊が、やはり真黒な瞳を持つ大きな目玉をおずおずと動かしながら、懸命に彼らが犯したあやまちを詫びようとおそらくはアイアム・ソリーとでもいうような外国語を何度も何度も分厚い唇から発した。
それが私がうまれてはじめて耳にした英語であり、はじめて目にした黒人だった。
これは私が本書に触発されて書いた例文であるが、例えばそのような、ある任意の時代の、ある任意の街の、ある住人たちの身の上に起こるささやかな、しかしなかなかに忘れ難い事件や経験を、作者は慌てず急がずに言葉を選び、その言葉を舌の上で何度も転がせるように吟味しながら、真っ白な原稿用紙の上にきれいに並べて見せ、あるいは幼年時代の自分の過去を心ゆくまで再現しようと決めた少年のように、もはや書くことを忘れて屋根の上の白い雲の去来に呆然と見入っている。
フィリツプ・ソレルスの忘れ難い「神秘のモーツアルト」の訳者でもある著者は、本書を皮切りにフォークナーの、かの“ヨクナパトーファ・サーガ”の平成版を目指しているに違いない。
♪ハイランドの坂をあえぎながら登りゆきし3台のトラックの名は信望愛 茫洋
寄り添う思い出
★★★★★
だれかの記憶に留まり続けるだれかがいて、日々の営みが降りつもって、
そんな幾層もの記憶の上に今が在る。
その、だれかの記憶から、ひょいとかいつまんで、
問わず語りに語られる「人」の話、町の話。
吐息のような思い出と、輪郭をはっきりと持たない人物像なのに、
なんと心地よくこちらの胸に忍びこんでくることか。
堀江さんの描く春片の町とそこで生きる人々、かつて生きた人々と読み手が
同じ地平にいるような思いに捕らわれる。
欠けるものの多い暮らしの中で、人々は懸命に今日という日を紡いでいる。
語られる思い出は、それを語る人のフィルターを通した
「思い」の鮮やかさが際立っている。
「戸の池一丁目」の泰三さんの話のように。
病気や町のうわさ話、腐れ縁だの不実な行いだのが、訥々と語られ、
春片という町の人の柵が、ぼんやりとながらこちらの脳裏に定着してゆく。
それが、はらはらと散っていきそうでいかないのは、
そのどれもが、わたしたちが現実に見聞きしたことのあるような、
日常の些事雑事と似通っているからだ。
九編の連作には、たびたび子どもたちが描かれる。
満ち足りているとは言い難い生活のなかで、
子どもなりの気持ちの収め処を心得ている彼らがいとおしい。
読み終わるのがもったいなくてしかたなかった。
とくに好きな話は、「滑走路」「方向指示」「戸の池一丁目」。
頼りなさのなかで、つねにたゆたう。
★★★★★
ずいぶんと待ちました。『雪沼とその周辺』に連なる短篇集です。
『いつか王子駅で』などの中篇での語りの、微妙な〈踏み外し〉の感覚も好んで読んだのですが、〈語り〉としてのミニマリズムに徹したのでしょうか、氏の短篇の、短篇でしか味わえない妙味を存分に堪能できる作品でした。
おそらく形式にはとかく敏感な作家なのでしょう。エッセイには小説のような〈試み〉を、小説には随筆や日記断章的な形式を意図的に導入する。堀江さんのよく使うことばでいえば、〈はざま〉を目指した文章が、それまでの『回送電車』シリーズや『河岸忘日抄』などには顕著です。
ただ少なくとも、この〈雪沼〉連作に関しては、堀江さんは小説家として、小説家の書く短篇の可能性の海に素直に飛び込んだ、といえるのではないでしょうか。 クレスト・ブックスでは短篇のアンソロジーも組んでいるし、ロジェ・グルニエや小沼丹、阿部昭、島村利正の短篇小説も偏愛しているようです。自分からはけっして〈小説家〉とは名乗らない〈ものかき〉が、かなり真正面から小説家として取り組んだのが、この短篇連作なのではないか。
おもに描かれるのは、関係性の一回性、恣意性です。年端も行かない少年を語りにそえた作品が多いのも、そのためでしょうか。どの作品にも家庭が出てきますが、明哲な〈家族のきずな〉を描いた作品はひとつもありません。両親が離婚していたり、その前段階だったりと、本来、十全であるべきとされる関係性のほころび、もろさが、主にこどもの目線から、危機的状況としてではなく、ごく日常的な齟齬の感覚として描出されます。母親として、父親として、親戚や同僚として、十全にはその立場を受け持ちえていない不完全な人たちが、この作品には多く登場します。
そんな、人と人とがその場かぎりの不安定な関係のなかでしか繋がりえない〈はかなさ〉が、湯煎のように適度な微温をたもった文章によって綴られています。
『滑走路へ』と『トンネルのおじさん』の最後の一文は、とくに胸に残りました。