今を読み解く「尺度」として
★★★☆☆
戦後初の本格的な政権交代からはやくも約半年が経とうとしているが、日本は良くも悪くも大きく変わろうとしている。しかし、「変わろうとしている日本」、そして「変わった日本」を知りうるまえに、われわれはそもそも「変わる前の日本」を知っていたのだろうか。本書は、著者福田が数多ある文献をひもときながら綴る、その名も「日本の近代」。
保守論客と知られている福田であるが、「ナショナリスト」と名乗る理由を一連の本にて、ものを考える尺度として「国家」を採用しているというように答えている。真意のほどは定かではないがとにかく、そんな冷静な福田にとっての「尺度」である日本が、この本の主題である。
上巻に本巻では、日本が近代国家に完成するまで道筋として江戸末期から第一次世界大戦あたりまでを紹介しているのだが、内容は非常にわかりやすい。6章構成の本書は、日本が近代国家になるために達成したことを、各章ごとに用意した作りになっているのだ。そのため、原因と結果が明確になり、物語として非常にわかりやすい。
まず、『大丈夫な日本』でも著者が説いたように江戸時代の富の蓄積が日本の近代化への「溜め」となり、西南戦争など途中前近代的なものとの折衝に遭いながらも、基本的には迅速に作られていった欽定憲法によって露わになった近代国家の輪郭は、日清日露、さらには第一次世界大戦によって、明確に縁取られていく。
このような単線的な歴史の「物語化」は、(特に大塚英志なんかが言いそうだが)危険な側面もある。というのも、その過程で「抑圧したもの」を見えなくしてしまうからだ。ただ未読の下巻にてその「抑圧したものの回帰」が起こるのかもしれないし、さらには、テレビドラマで龍馬の織りなす「かの時代」の物語に浸って現実逃避をするよりも、今あるこの国に行き着くまでのその系譜を現実的かつクールな目線で読み解いておくほうが、だいぶ実にはなるだろう。