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第二次大戦とは何だったのか (ちくま文庫)

価格: ¥777
カテゴリ: 文庫
ブランド: 筑摩書房
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「パクス・ブリタニカ」から「パクス・アメリカーナ」へ ★★★★★
この本は第二次世界大戦に参戦した主要国の指導者の生い立ちや思想を解説することにより、指導者がどのような意図をもって世界大戦に参戦したのかを明らかにした本です。

それにより歴史の大きな流れが理解できるようになっています。

簡単に説明すれば、世界の盟主がイギリスからアメリカへ交代したということであり、「世界標準(グローバルスタンダード)」が「帝国主義」から「自由主義」へ外交的にも経済的にも変わったということです。

そのために戦前と戦後では平和、人権、自由、平等の概念が変わったということを理解する必要があると思います。
「根拠」が今ひとつの独特な主張 ★★★☆☆
相変わらずの博覧強記振りと、通常この手のテーマでは、触れることが少ない資料に及んで、縦横に論を展開。主張に対する同意不同意は別にして、読んで損は無い本。本書の中核は、列伝体にあった、為政者に対する著者の「批評」がバックボーン。「批評」を通じて「歴史」のイメージを浮かび上がらせようと言うもの。個人的な好き嫌いから言うと、やはり主張が強い「歴史」ものとは、本書に限らず、網野善彦、ホイジンガ、ブローデルなど、どれも評判に比して作為的でつまらないことが多いが、本書も結論的にはそうだ。本書をスリリングにさせるのは、どこかしら大戦の残虐行為にまとわりつく「サド侯爵的な」変態・アングラ・暗黒文学の色調だが、それを、「事実」としてさらりと描くところが、本書の味付けか。チャーチルへの厳しい批判的な言辞は、チャーチルの「鬼才」振りを否定するには余りにも弱く(私もあんな黄禍論者は嫌いだが)、はっきりしない評価の軸が却って露呈している。第一次大戦を第二次大戦より重視すると言う主張自体は、欧州に住んだり長期滞在の経験者にとっては、「普通の」印象だし、NHKの「映像の20世紀」でも第一次大戦が、事実上の「19世紀の終焉」を齎したことは、映像ではっきり描いていたと思うし、思想界での同大戦の影響は喧しく語られていた。でも、それにも拘らず、本書では、第2次大戦が、前の大戦と異なり、本当の「世界大戦」であったことや、原爆・アウシュビッツ・強制労働等々の巨悪の点ではスケールが圧倒的に大きいこと、そして、第一次大戦には「戦後」が存在し、評価が定めやすいが、第2次大戦には輪郭線を決定する「戦後」自体が曖昧であることが等閑視されている。尤もらしく見せるのが「批評」の技で、その点柄谷行人や浅田彰の「錯覚」技術は、著者より上で、著者は正直すぎるように思える。
人物の評価と歴史 ★★★★★
第二次世界大戦の影響によって、今の各国のパワーバランスが形成されているという面では、歴史的な意味は十分にあった戦争だと私は考えます。特にアジアの植民地からの開放という歴史は今後何百年か後に日本が欧米と戦争を起こした結果得たものという歴史認識が一般的になってもおかしくないのではとすら思います。本書ではその第二次世界大戦の中で各国の中心人物の性格や経歴等も簡単に記載しています。特にヒットラーや東條英機などの敗戦国の悪の枢軸と呼ばれた人々が、実はそうではなかったという解説は、なるほど歴史とは勝者によって記されるものなのだという事を再認識させられました。
こんな観点があったとは ★★★★★
第二次世界大戦関連の著作は色々読んできたつもりだが、本書のような切り口のものは初めてである。戦争指導者の視点に立った第二次世界大戦論と言ったところか。

彼ら指導者の内面を想像することによって、軍事力や政治力、経済力のみの戦争論で語られたものとは違った様相を呈する第二次世界大戦が見えてくる。また、ヒトラー、ムッソリーニ、東条を十把一絡げに論じることの愚かさも教えてくれる。

少なくとも私にとっては新鮮な切り口の著作である。
世界大戦を必要とする構想力 ★★★★☆
人物論は従来の言われている通りだと思う。日本人のチャーチル好きについては、私も疑問であった。
世界史の潮流からみた日本が、初めて主体として参加したのが第二次世界大戦だったという視点は、さすがに著者の慧眼だと思う。
しかし、その主体がはたして戦争後の世界構想をどのように考えていたのか?
せいぜい中国東北部を勢力下に置き、さらに可能であれば東南アジアをと考えていたのか?

「大東亜戦争」は著者が言うように日本が「主体」として参加した戦いならば、
そのゴールがなんだったのかを、考えずにやむを得ず「やぶれかぶれ」で飛び込んだ戦争のように個人的には思える。
石原莞爾はその構想を持っていたのだろうか?私はそうは思えない。彼の世界最終戦争論は、
私には出来の悪いSF小説としか思えない。
そして、石原以外の政治家(軍人でも)が石原程度の構想力を持っていたのかは、残念ながら否としか言いようがない。
近衛文麿にも東条英機にもそんなものはなかった。
よくアメリカの物量に敗れたという意見を聞くが、著者の言を借りれば、「ルーズベルトの構想力」に負けたといえるのではないか。
そして、主たる戦争目的を持てないまま戦い続け、戦略もなければ戦術もなく、なすすべもなく、「バンザイ・アタック」「航空機特攻」「大和の海上特攻」と作戦ともいえないような、
ただの人命損耗を続けてしまったとしか思えない。
著者の世界史の大きな潮流から日本を、世界を見る視点については、今の「識者」と呼ばれる人々にはないものであろう。