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人間の器量 (新潮新書)

価格: ¥714
カテゴリ: 新書
ブランド: 新潮社
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時代の風 ★★★★☆
本当に日本人は小粒になっているのだろうかというのが一点。さらに本書では、西郷隆盛など歴史的に傑出した人物が紹介されているが、その時代背景の中では庶民にいたるまで豪快な人物が多くいたのではないか。司馬遼太郎は民族が沸騰するといったが、最近の若者はおとなしくなり元気がない。
明治・大正・昭和の偉人伝 ★★★☆☆
近世から近代にかけての日本についての著作を盛んに著している文芸
評論家の福田和也。福田がなぜこうも何度も古を振り返るのかというと、
まさに温故知新。かつての日本にできていたことが、なぜに現代日本に
はできないのかという嘆きと怒りが彼の著作からはいつも満ちている。

そんな福田が本書で嘆くのは、「なぜ日本人はかくも小粒になったのか」。
その背景にはもちろん、近代の政治経済、文学の分野にて躍動していた
「小粒でない」偉人たちへの憧憬の念が裏書きされていることはいうまで
もない。本書はいわば明治・大正・昭和の偉人伝だ。

だが本書を通覧して、氏が考える「器量の大きな人間」がどんな定義で括
ることのできる存在形式なのかは、判然としない。本書がとりあげる「偉人」
たちには、博覧強記な他を寄せ付けない人物もいれば、気配りのよくでき
た人物、または俗物でどうしようもなく卑小にしか思えない人物までも登場
する。登場する全員を貫く共通点は、一見見いだせない。

しかしよく考えれば、それは当然のことなのかもしれない。本書が探求する
「器量の大きさ」とはいわばカリスマ性のある「スゲェやつ」のことなのだ。
「スゲェやつ」とは、そうなるための条件付けできるようなタイプの者では当
然ない。一方で学力や収入の高低など、そういった垂直方向の評価軸でし
かものを計れず、また自身もその評価軸でしか評価され得ない存在。それ
こそが、平成の世を闊歩する「小粒」民なのだ。

著者は考える小粒になった理由はいたって単純なものなのだが、評者とし
てはもう少しそれを考えてみたい。そこには少なからず、ネットの普及という
ものがあるんじゃないだろうか。ネットで人は即座に「世界」と接続できるよう
になった。つまり、いつまでも「井の中の蛙」ではいられなくなった、という状
況がある。評者が考える数少ない「器量の大きな条件」のひとつは、この「身
の程を知らなさ」だと、思うのだ。
人に大きくしてもらった器、今度は別の人の器を大きくしたい ★★★★★
 この新書の要約は、だいたい、次の二文につきるのではないか。

上から貰ったものは、上には返せない。だから、下に返す。若い人にね。あなたも、そうすればいい。そうやって街というものは成り立っているのだから。

 人に大きくしてもらった器。今度は、別の人の器を大きくしたい。

結局、気にかける人、心を配る人の量が、その人の器量なのだと思います。自分の事しか考えられない人は、いくら権力があり、富があっても器はないに等しい。死を前にして最後の最後まで未練にしがみつかなければならない。

 私などは、「自分の事しか考え」ない、器のない男だなあ。

 本書には、器の大きい人々の残したエピソード、人物に対する考察等が、紹介されてある。いくつか、紹介する。

 乃木大将の人格、器に対する考察。

明治時代、命は貴重なものでした。人ひとりが、生き延びること、成長して一人前になる事自体がおおごとだった。(略)にもかかわらず、明治日本は、壮丁を戦場に送らなければならなかった。だからこそ、(略)この人の膝下ならば、死んでも仕方ない、死んでもいい、と思わせるような、そういう器をもった人間が必要だった。

 松永安左衛門宅を、吉田茂が訪問した際、吉田は美術品を誉め、庭をけなした。

(略)松永は、「美術品は、ただありのままを見ればいい。だが庭は、五十年後、樹や苔がどうなっているかを想像しながら鑑賞するものだ」と語って、吉田の短絡を笑ったといいます。器が違うとは、まさしくこの事でしょう。

 庭だけでなく、人の器の大きさも、五年後、十年後、彼・彼女が「どうなっているかを想像」できると、人の見方も変わってくるのかもしれない。

 「葛西善蔵を尊敬し、牧野信一を評価し、太宰治と会おうとしていた」という、山本周五郎。

枯れた技巧で知られた作家、永井龍男にたいして周五郎が、真剣にゴルフを止めるように忠告したというエピソードを、木村氏は紹介しています。「小説を志すものに、そんなことに費やす時間があるはずはない」と。

 他にもエピソードは紹介されてある。山本がどんな作品を残したのか、気になりだした。

 れいによって、まとまりのないレヴューになった。現物を手にとって、ご確認のほどを。
もともと、筒井康隆氏に持ち込まれた企画 ★☆☆☆☆
「人間の器量」
と言うタイトルで、書いてくれと言う企画は
新潮社から、筒井康隆さんのもとに持ち込まれていたが
「断った」
と,筒井康隆著「アホの壁」に書いてある。

どんなもんやろ,むかしの偉人は、かつての日本人は器量が大きかった
と言う話が縷縷書いてあるんだったら読む意味はないな
時間の無駄だな、と思い読んでみたが、

果たして,その懸念は的中してしまったのである。

合掌
博識になれる、それも凄い知識!それだけでも必読、楽しい。 ★★★★★
デビュー作はびっくりする出来だったが、以来、博識だけどいまいちだなあ、って思っていました。読者をだます技術が下手というか。単なる博識ではない着眼点のすごさがあるから相当人の悪いところがあるくせに、臆面もなく、「江藤先生」とか「編集者様」みたいな言いかたに加えて「して下さった」みたいな変な敬語が急に出てきて、妙に世間づきあいみたいな不似合いな小ッ恥ずかしい表現があって残念に思っていた。「生活のための表現」が混ざってしまい鼻白んだものです。で、本書もそれがないかといえば、それはある。諦めたのでしょう、生活と「批評家然」とした突っ張り方の二重構造の折り合いの付け方に。けど、本書は、それを読者に対する敬語表現で中和し、些か棘のありすぎた表現を抑えることで不自然さを抑えた。これまでも試みていたけど、それがまた不自然だったが本書はだいぶこなれてきた。で、残るは、本領の「博識開陳」で進みまくる読みやすい文章。凄い、実にすごい博識。巷に累々たる本があって好きで読んでいれば、大体の話は知っている筈なのに、本書に出てくる近代の偉人の挿話は初見のものが結構多い。高橋是清は自伝の範疇だから私も知っている話だが、ほかの偉人たちのエピソードは「ほ〜」と思うものが多く、それだけでも本書は価値がある。「器量」がどうのっていう論旨は、分からない人はいないでしょう。素直に良いことを言っているよ、と認めてあげましょうよ。著者が言うような点が日本を駄目にしたというかつまらなくしたような気がします。でも著者が言うとおり、貧困と戦争とのtrade-offの面もあるわけで、ニーチェが何と言おうと(本書で引用されている)、ニーチェの方が現代日本人に比べると猿に近いと思う。それを織り込んだ上で、著者は、尚、困ったことだ、と言っているように思える。共感。