もし神が全知全能ならば、人間に対しての試みをしなくても結果は見えているはずである。しかし旧約の神であるヤーウェは本書に登場するヨブに対して悪魔の手を使ってまで試みをしているのだ。
神が試みを行うのは猜疑心の虜になっているからで、そうまでしないと神自身の平静を保てないからである。そして予想通りの結果が得れないと神は残忍さを現し、か弱いヨブに対してこれでもかと言わんばかりに力を見せ付ける。
このような神の暗黒面を心理学的に解説したのが本書である。
しかしながら、この本は難解である。というよりは、それは、この本自体がおそらくはユング本人の自身に対する極限状態での挑戦である為だろう。
この本の冒頭にある、「私の感情もまた、試されなければならない。」という、ユング本人のコメントは非常に重要といえる。
最近では変わりつつあるが、フロイトなど、昔の精神分析の世界では、一般に感情を動かすことは「転移」と呼ばれ、特に治療者の立場の人間には厳しく戒められた。
しかしながら、ユングは比較的初期のうちに、その戒めを時として破ることを重要視した。
感情の動きは、様々なコンプレクスに由来する。
しかしながら、自我の正体が他ならぬコンプレクスである場合、その動き、振る舞いは、まさに自身の精神の在り様の証明であり、命の証明となる。
生き生きとした感情とは、生命の、自我の証明である。
そしてコンプレクスとは、不完全さの証明でもある。
ユングはおそらく、自らの精神を実験場と化し、自らの内部で、神と対決することで、自らの精神を無意識の領域含み、全て試したのだろう。
面白いことに、ユングは自らの不完全性に気付かない訳でもなく、しかし意識のみでそれを把握することからも離れ、隠しもせずに神と対立することを重視し、それをこの本の中で行ったのであろう。
それはユングに拠れば、人間は道徳的に神を超ええるからである。
その先駆者がヨブであるという。
そして自らが存在するということ、精神が「在る」為には、何かの対立がなくてはならない。つまり神との対立は、神との同一化を避けるためにも重要であるが、今回の対立は単なる同一化を避ける為というより、人間と神とのある種の「対等さ」をユングは主張しているように見える。
神と人間という、宗教者であるならば、絶対的とも言える隔絶をものともせず、人間は対等に神を告発できなければならない。
ヨブはその先駆者であり、その時にヨブは神を一時的に超えたと、ユングは考える、それゆえにYHWHはああまで子供のようにヨブに怒り狂ったのである。
なんという、情けない全能者であろうか。
このような、一般の宗教者では通常自らに戒めをかける感情の起伏を、野放しにしつつ、そのはるか後の時代の集合無意識の変化を期待するという、実に「時代(アイオーン)」的な実験的書物を、彼は遺したのである。
神も成長し、変容するのだ。神は、あのヨブの問いから、はじめて倫理に目覚めていく。そして、やがてヨブへの償いにと、自らの息子を世に送り出し、殺すのだ。
ユングによれば、ユダヤ-キリスト教の神は本来の神の全体からすると〈切り取られた神〉なのだ。確かに神は全能である。しかしそれはこの世をありのままに許しているように、言わば人間的にその全能を発揮している。神は〈無意識〉から〈意識〉へ、また子どもから大人へと変容していく。神は善も行なえば悪も行なう。男性的であり女性的である。結婚もし、子どもも作る。
ここで一気に反転させよう。神は人間のこころ(特に無意識)である。神は人間になり、人間は神にならなければならない。世にも奇妙な〈反キリスト教〉の書である。