「歳三は、ゆく」
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混乱期の幕末にその腕により名を挙げ、自ら作り上げた最強の白兵軍団新選組と共にその名を後世にも轟かせた田舎侍、土方歳三。しかし、先見の明があったわけでもなければ、時代を作ったわけでもない。何が司馬遼太郎を惹き付けたか。
「歳三は、ゆく」
終盤、一騎飛び込み敵陣を悠々と進む歳三を描く一文である。この「竜馬がゆく」と対照的な一文に、筆者が惹きつけられたものを見た気がする。
当時の常識を飛び越えて、自らの考えを劇的に変えながら、国中を走り回って志士をつなぎ、明治維新という革命をデザインしたのが坂本竜馬なら、土方歳三は、新たな時代を提案することなく、論客に説かれながらも方向転換することもなく、ただひたすらに人を斬り、官軍の前に散った男である。
美しいまでに不器用に、時代に抗いながらも自身の血が煮えたぎるままに走り抜けた一途な生き方。他の誰が何をしようと関係なく、土方歳三は、己の血と美学のために生きた。その生き様が、これほどまでに後世の人を惹きつけるのだろう。
「どうなるか」ではなく「どうするか」
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世界は米国一極集中から新興国などの台頭により、多極化構造が進展している。
基軸通貨であるドルへの信頼が揺らぎ、日本がものづくりとどう向かい合って生きるかという問題とよく似ている。それはあたかも一極集中の徳川幕府体制では食っていけない諸藩が行動した幕末同様、世界規模でのダイナミックな変革が要求されていると思う。
新選組の副長・士方歳三は「燃えよ剣」で沖田聡司へこう語る。
「どうなるとは、漢(おとこ)の思案ではない。おとこはどうする、という事以外に思案はないぞ!」と。
日本が食ってゆくために本書より学ぶべきは、まさに土方が言った「どうなるか」ではなく「どうするか」である。
どうなるかだけの評論志士達は極限状態になると逃げ帰る。
さらに「どうなるか」によって「どうするか」を決めるやり方は、極限状態や偶然により破綻することを暗示している。それは米国のリーマンブラザーズの例で明確である。
「どうするか」があってはじめて「どうなるか」が導かれる。それはどの時代でも普遍的な摂理であることを知る機会となった。
読んだ人はみんな燃えます
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司馬遼さんの小説の中でどれか一つとなると、やはりこれを選ぶしかありません。 とにかく、どんなに温厚な性格の人をも“男として生まれたのならこんな風に生きてみたい!”と奮い立たさずにはおかない男性美学の究極の魅力に満ち溢れた作品ではないでしょうか。 “男性美”と書きましたが、それは決して暴力的で野蛮なマッチョイズムではなく、己の信念にただ純粋に生きるーという意味においての美です。 げんに土方歳三は歴史上の勝者ではないのですからー。 勝ちだの負けだの、世間の評判だの名声だの、得だの損だのー、そんなものをすべてかなぐり捨てて、ただ己の信ずるが所の道を行くー。 それが出来れば人間すべからく“幸せな人生”を生きられるわけであり、その点においてこの作品は“時代小説”の範疇を超えて、全ての人間に究極の至福のひとときを提供できる最高のエンターテイメント=芸術作品となるのではないでしょうか。
全編これカッコいい見せ場の連続なのですが、特に歳三が函館で官軍に特攻をかける場面や、“お雪、横浜で死んだー”に始まるラストの一文は司馬さん一世一代の名文ではないでしょうか。 また恋人・お雪さんとのラブシーンの濃厚さ。 これまた、これまで文章で書かれたあらゆるセックスシーンの中でこれ以上のものがあっただろうか(エロいーという意味ではなく、もはやそれを通り越しています)ー?という出来。 ホント、男としてこんな風に生きられればー、チクショー。 とにかく問答無用で読んでくださいーとしか言えない作品ですね。
読みやすい
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土方歳三について初めて読んだ本でした。ここ15年ほどの間に5回くらい読み直していますが、今読んでもまだまだ楽しめました。後期司馬小説によくある歴史資料解説のような部分はほとんどなく、とても読みやすい小説。新撰組入門としても幕末の歴史入門としてもとっつきやすい本だと思う。土方に対する筆者のまなざしが暖かく、殺伐としながらも爽快な読後感。
最後に見せた暖かさみたいもの
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司馬氏の描くに好きな男というのは、一本筋を通して、死をも顧みることなく闘い続ける人、なのでしょう。政治、特に自分の保身・出世というものに重きを置く生き方や勇気のなさを彼は最も侮蔑しているような気がします。俗とは無縁でどこかすがすがしく、爽やかな印象を感じさせる印象が最も好む人物像のような気がします。無論、その人物の歴史的・社会的な意義についての評価は常に分かれるもの。土方歳三という人もそのひとりだと思います。
どことなく、俗っぽい近藤勇に対して、あくまで土方は幕府に殉じて徹底的に戦い続ける、という点においてぶれがありません。それは、函館で幕府軍の幹部になるまで自己を一介の喧嘩屋と認識し続けた、という一点において一貫しています。
京都で血生ぐさい殺戮や内部抗争を経た後、最後の地、函館で土方は身内の斉藤一らを意図的に逃します(後に斉藤が土方を「奇妙な人」と評しているのは面白い。また、斉藤は実際には函館には行っていないようです)。最後に見せた暖かさみたいものが、鬼と呼ばれたこの人物、いや、本来の人間というものに安心感を覚えさせてくれます。