本書は「超越的なもの」について、太古から人類が巡らせてきた思索を追うシリーズの第2巻。原初の共同体が崩壊し、王と国が生まれるまでを考察する。
著者はアムール川流域やサハリン、北米、南米などに伝わる数多くの神話を分析、自然と人間が互いに尊重し、交流していた社会の姿を探り出してゆく。ここでは、人と動物が単なる狩り狩られる関係ではなく、人間も毛皮をまとえば獣となり、雌とつがって子を産ませるというような伝承が生じる。また、無差別に動物を殺戮することなどありえず、生きるために殺しはしても、骨や毛皮は敬意をもって扱われた。人と自然が相互に往き来できる世界、いわば「対称性の社会」なのだ。こうした世界では、「権力」は本来、自然が持つものであり、社会の外にあった。人間のリーダーである「首長」は、交渉や調停といった「文化」の原理で集団を導く者だったのだ。だが、この「権力」が共同体内部に持ち込まれたとき、人間と自然は隔絶し、首長は王となって、国が生まれた。「権力」を取り込むことで成立した「国」は、人や自然を一方的に支配しようとする宿命を持つ。ゆえに国家というものは本質的に野蛮をはらんでいるのだ、と著者は言う。
本書のもとになった講義は、同時多発テロの直後に開始された。その影響は色濃く、本文のなかでも、文化とは何か、野蛮とは何かという問いかけがしばしばなされている。著者は国家という野蛮に抗しうる思想として、仏教の可能性を考察する。ブッダの生家は共同体に近いような小邑の首長であり、この出自が仏教の性格に影響を及ぼしているという。とすれば、原初の精神が21世紀の混迷を照らすということになるだろう。きわめてダイナミックな構図だが、こうした示唆こそ神話を学ぶ意味なのかもしれない。(大滝浩太郎)
もともと、熊は人間の畏敬の対象であり、尊敬される友人であった。自然の側にいながら、人間と同じルート(ベーリング海峡)を通って新大陸にやってきて、環太平洋地域の当時の狩猟民とほぼ同じ生息域を持っていた。神話の中でも熊は人間と同じような扱いをされている(結婚したり、毛皮を脱いだら人間になったり、死んだら丁重に弔われたり)。熊と人間は対等であった。
国家=王の誕生は、鉄の武器の誕生=人間と熊の対等性の崩壊=人間と自然の対等性/対象性の崩壊と同じタイミングで起こっているらしい。ある時期から、神話で「傷つけられた熊」が登場するようになり、それと前後して「王」が誕生する。強力な武器がなければ熊を傷つけることはできない。国家の誕生に関しては諸説あるが、たとえば、共同体の内部の富の蓄積ということは国家の誕生の必要条件であっても十分条件ではない。義務だけ負い、まったく権能のない首長というものもいた。
自然と人間の対等性(筆者のことばでいうと対象性)の崩壊が国家の誕生につながったという筆者の指摘は、なんだかむちゃくちゃなようで非常に刺激的だ。
書いてあることを、荒唐無稽の仮説の積み重ねと却下することもできるかもしれない。それでも、なんというか魅力的な思想に満ち溢れている。宮沢賢治の授業はこんな感じだったんだと思う。
なんでなんとなく熊に親近感を感じるのかが分かった気がする。熊なんてぜんぜん会った事ないのにさ。