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熊から王へ カイエ・ソバージュ(2) (講談社選書メチエ)

価格: ¥1,680
カテゴリ: 単行本(ソフトカバー)
ブランド: 講談社
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   米同時多発テロと神話学――。この2つが根本のところでかかわっていると聞けば、異様な感じを受ける向きも多いだろう。だが、テロであれその報復であれ、すべての「野蛮」は神話的価値観の終焉がもたらしたといえるのだ。

   本書は「超越的なもの」について、太古から人類が巡らせてきた思索を追うシリーズの第2巻。原初の共同体が崩壊し、王と国が生まれるまでを考察する。

   著者はアムール川流域やサハリン、北米、南米などに伝わる数多くの神話を分析、自然と人間が互いに尊重し、交流していた社会の姿を探り出してゆく。ここでは、人と動物が単なる狩り狩られる関係ではなく、人間も毛皮をまとえば獣となり、雌とつがって子を産ませるというような伝承が生じる。また、無差別に動物を殺戮することなどありえず、生きるために殺しはしても、骨や毛皮は敬意をもって扱われた。人と自然が相互に往き来できる世界、いわば「対称性の社会」なのだ。こうした世界では、「権力」は本来、自然が持つものであり、社会の外にあった。人間のリーダーである「首長」は、交渉や調停といった「文化」の原理で集団を導く者だったのだ。だが、この「権力」が共同体内部に持ち込まれたとき、人間と自然は隔絶し、首長は王となって、国が生まれた。「権力」を取り込むことで成立した「国」は、人や自然を一方的に支配しようとする宿命を持つ。ゆえに国家というものは本質的に野蛮をはらんでいるのだ、と著者は言う。

   本書のもとになった講義は、同時多発テロの直後に開始された。その影響は色濃く、本文のなかでも、文化とは何か、野蛮とは何かという問いかけがしばしばなされている。著者は国家という野蛮に抗しうる思想として、仏教の可能性を考察する。ブッダの生家は共同体に近いような小邑の首長であり、この出自が仏教の性格に影響を及ぼしているという。とすれば、原初の精神が21世紀の混迷を照らすということになるだろう。きわめてダイナミックな構図だが、こうした示唆こそ神話を学ぶ意味なのかもしれない。(大滝浩太郎)

熊は人間。人間は熊。 ★★★★☆
大学生の時に、川上弘美さんの『神様』という作品を読んだ時、
熊とわたし(人)がハイキングにいくというシーンがでて来ました。
熊が川で魚をとってくれ、お土産までくれて二人はその日楽しかったと言って別れます。
ここに出てくる熊は人並みかそれ以上によくできた熊です。
そしてこの二人、ただの友達なのか、恋愛対象なのかわからない不思議な関係。
けれど、人と熊といったら全く違う種族なのにもしかしたらと思わされてしまう。
何だか分からない居心地のよさがこの作品にはありました。

数年後にこの本『熊から王へ』に出逢って、『神様』のなかにみた熊と人との不思議な関係は神話にあったのだと気づかされました。


私にとってこの二つの作品は心の奥底にあるやわらかい部分をいつでもつつんでくれる大事な作品となりました。
シリーズ2冊目。 ★★★★★
カイエ・ソバージュシリーズの二冊目。とても面白かった。

「神話的思考」が生きている「対称性社会」と、現代の「非対称性社会」の違いについて述べられる。
「対称性社会」では文化的世界のリーダーである首長や「人食い」は分けられている。しかし、人間社会の内部に、自然のものであった力を持ち込み、自分のものとする王が出現し作られたものが国家である。

というような事が解りやすく書かれている。
神話がそこに結びつくのか! ★★★★★
第一巻で、神話がどのように作られ、流布してきたのかを解明した著者が、今回はさらに深く、国家の成り立ちについて解明しています。
そこには、「国家となったケース」と「国家にならなかったケース」の違いを神話との関係性で説明していますが、大変興味深く大いに納得しました。

個人が持つ権力への欲求を、組織として大変上手にコントロールしてきたネイティブアメリカン達の思考は、今改めて評価される必要がある、という著者の評価には私も大賛成です。



友達は熊 ★★★★☆
別に熊が王になるわけではない。

もともと、熊は人間の畏敬の対象であり、尊敬される友人であった。自然の側にいながら、人間と同じルート(ベーリング海峡)を通って新大陸にやってきて、環太平洋地域の当時の狩猟民とほぼ同じ生息域を持っていた。神話の中でも熊は人間と同じような扱いをされている(結婚したり、毛皮を脱いだら人間になったり、死んだら丁重に弔われたり)。熊と人間は対等であった。

国家=王の誕生は、鉄の武器の誕生=人間と熊の対等性の崩壊=人間と自然の対等性/対象性の崩壊と同じタイミングで起こっているらしい。ある時期から、神話で「傷つけられた熊」が登場するようになり、それと前後して「王」が誕生する。強力な武器がなければ熊を傷つけることはできない。国家の誕生に関しては諸説あるが、たとえば、共同体の内部の富の蓄積ということは国家の誕生の必要条件であっても十分条件ではない。義務だけ負い、まったく権能のない首長というものもいた。

自然と人間の対等性(筆者のことばでいうと対象性)の崩壊が国家の誕生につながったという筆者の指摘は、なんだかむちゃくちゃなようで非常に刺激的だ。

書いてあることを、荒唐無稽の仮説の積み重ねと却下することもできるかもしれない。それでも、なんというか魅力的な思想に満ち溢れている。宮沢賢治の授業はこんな感じだったんだと思う。

なんでなんとなく熊に親近感を感じるのかが分かった気がする。熊なんてぜんぜん会った事ないのにさ。

「国家」の誕生と「無法な野蛮」の発生 ★★★★★
カイエ・ソバージュ2巻である本書は、世界がなぜ「野蛮」を内在化してしまったかという難問を「国家」の誕生という根源に遡り論考する。
 中沢氏は自然との「対称性の思考」を持ったネアンデータル人の調和社会から、自然と「非対称性」を持つように変化した新石器時代の「国家」の成立への変遷を環太平洋のさまざまな神話を鍵に読み解く。自然との「対称性の思考」を持った古代人は動物とヒトとの平等性(友愛)の感情を持っていた。動物は狩りをする対象であるとともに仲間である。このため、動物からの肉や毛皮の贈り物に対して、動物の解体は丁寧に取り扱い、敬意を込めた儀式によって、魂は自然に返すという行動によって、動物に対する一方的な優位を否定した。このような社会では首長は権力を持たず、武力ももたず、もめごとには平和的解決の調停を行っていた。
 時を経て、首長がまとめていた社会に、冬の祭りの時期だけ、秘密結社やシャーマンや戦士などのリーダーが自然の力=権力の源泉を象徴した精霊の仮面をかぶって「人食い」を演じるようになる。これが国家発生の臨界状態となる。そして新石器時代になると、異変が起こり、首長と「人食い」が合体して、「王」が誕生し、「国家」が誕生する。そこでは自然との「対称性の思考」は崩壊し、かつては自然がもっていた「権力」を王が手にする事になり、この時点から「野蛮」が発生する。
 古代の祭・儀礼をいわゆるアニミズムに留まらない深遠な思考に深海を覗き込むような感慨をうけた。