国がなくなる瞬間
★★★★☆
会社が更生法を申請したりM&Aで買収されスポンサーや経営者が一新されるという気持ちは非常につらく不安なことだと思う。それが会社ではなく国だった場合となると規模が大きすぎて想像がつかないが、不安心理は並大抵のものではないと思う。特に戦争状態で敵国であったり敵国思想であった国に統治されるとなると、より一層不安であろう。筆者は偶然にもサイゴン陥落を体感した。そしてその時の心理状態を詳細に記している。しかし著者の心理状態ほどにベトナム人の行動から緊張感が伝わってこない。これこそがサイゴン(ホーチミン市)の懐の深さだと思う。実際にベトナムに行った人なら分かると思うがベトナム人のものすごいバイタリティーとエネルギーは戦時中であろうが、国が滅びようが変わらないのではないかと思えるほどの勢いがある。そんなベトナムを垣間見ながら一国の消滅を体感できて充実感のある本だった。
近藤紘一の出発点
★★★★★
沢木耕太郎「一号線を北上せよ」を読み、そこで紹介されていたことから本書を知りました。仕事で何度もベトナムに出かけていたのですが、近藤紘一氏のことは知識がありませんでした。サイゴン陥落という歴史的事件を「目撃」した体験のみならず、ベトナム人への暖かい目差しから紡ぎ出される生き生きとした文章が素敵です。1986年、45歳で逝去されたとのことですが、まだ生きていてほしかった。今の経済発展を遂げつつあるインドシナの姿を彼はどう捉えるでしょうか。本書購読後、今販売されている氏の文庫本を皆購入しましたが、絶版も多く、残念です。機会があれば、「近藤紘一ブーム」を是非盛り上げたいものです!
サイゴン最後の二ヶ月
★★★★☆
南ベトナムが消滅した1975年4月30日、その前後二ヶ月間サイゴンに滞在した著者である新聞記者が、その目線から得たものを本にしたノンフィクション。
あのサイゴンが世界中から注目をあびた、あの日、あの瞬間を、その場にいた人間の視線で書かれた貴重な作品だろう。
読みのもとしても一級、時間を忘れさせる本です。
ベトナム庶民からみたベトナム戦争
★★★★★
ベトナム戦争の終結であるサイゴン陥落迄の約2週間を追ったドキュメント作品である。
著者は当時サンケイ新聞のサイゴン特派員としてこの現場を報道し続けた人物である。本書が出版されたのは陥落後5ケ月というときである。当然、南ベトナム政権崩壊の模様も臨場感をもって描かれている。
しかし、本書は所謂ベトナム戦争の批評本ではない。この戦争の詳しい暦史や南ベトナム支援した米、北ベトナムを支援した中ソへの批評も書かれていない。戦場の悲惨な様子も書かれていない。だから、本書でベトナム戦争の全様を知ろうとすると肩すかしをくうだろう。が、そんなことは本書の価値を減ずる要素ではない。それは他の作品で知ればよいのである。
ここに書かれているのは、ベトナム人の視点からみたベトナム戦争とサイゴン陥落の様子である。著者は彼ら(一般庶民も軍人も政府高官も全て含めて)の民族性あるいは文化を理解し、彼らの視点からこの戦争の姿を描き出している。
しかし、著者は彼らを理解し受け入れても彼らの立場には立たない。あくまで「公平性」を貫いている。この姿勢が本書を優れたドキュメント作品としている。
著者はサイゴン特派員時代に娘連れのベトナム人女性と結婚している。そして、彼女の多くの家族と一緒に暮らしていた。この結婚が本書をよりリアルにしたことは間違いない。
彼はこの後、妻と娘を媒体としてベトナムあるいは東南アジアの国や人々を描き出す作品を発表してゆく。本書はその最初の作品である。
著者の文体は新聞記者出身のノンフィクション作家としては他の作家のそれとはチョット異なる。いい意味で小説的ともいえる情感豊かな文章である。この文体があったからベトナム庶民の姿が生き生きと描かれたのだと思う。今読んでも決して色褪せてはいない。傑作である。
彼の本をもっと読みたかった。
★★★★★
ベトナム戦争。『1960年代初頭から1975年4月30日までベトナムで繰り広げられた南ベトナム(+支援したアメリカ)と北ベトナム(+支援したソ連、中国)との武力衝突のこと。』社会科の授業では習ったけど私の生まれる前の戦争だ。私が「戦争はまだ地球に残ってるんだ」と知ったのは中学生の頃。湾岸戦争でした。あの朝の花火のような鮮やかな映像は一生忘れられません。その日の授業は急遽「なぜ湾岸戦争ははじまったのか」でした。母は若かりし頃、駅前で反戦フォークを歌いデモに参加し友人たちと酒を飲みながら語り合うのが好きだったという。(でも熱烈な反戦家ではなかったのだと思う。)私が「ベトナム戦争」と聞くとなぜかいつも今からは想像できないほど若い母がギターを担いで歩きながら歌っている姿をイメージしてしまう。鉄腕アトムもドラちゃんも出てくるだろうと子どもの頃に想像した21世紀。人類は未だに戦争がやめられないでいます。今日は別に難しい話とか反戦の話とか資本主義どうこうとか書こうとは思っていません。ただ、私は時々無性に戦争物をみたくなるのです。映画と本くらいしか知識は拾えないけどとにかく物凄く戦争を題材にした「人の作ったもの」を読んだり見たりしたくなるのです。軍需マニアでは無いし血とか爆弾とかにウキウキする訳じゃないし楽しくて見ている訳ではなくて。何かに操られているのかそれとも私のM性からなのか(笑)別に「人類の愚かな所」を見たい訳でもなさそう。(↑自分のことなのに理由が曖昧)だけどなんとなくだけどそういう時は「見なきゃ」というのにとても似た気持ちになっていることは確かです。多分なってる。へんな責任感なのかな。いや、多分「戦争」も含めて人間がしてきたことやしでかしたこと全てが、私にとっての面白さなのだ。不謹慎に聞こえるかもしれないけれど私は知りたくてたまらない。痛みや怒りや悲しみや喜びが。人間の義務とは言わないけど(←何様だよ、になっちゃうから)忘れてはいけないことってある。人間のルールとして。この本は近藤紘一さんが見た「事実」だ。『一国の首都陥落前後という決定的な時期が日を追って克明に記されている。それ自体が貴重な記録であることはいうまでもないが、登場人物たちの生彩がそれにまたとない肉や果汁や香りをつけている。それがユニークな一滴の光である。』開高健 ~ まえがきより抜粋 ~ 86年、近藤さんは亡くなられています。私ももっと彼の目撃した様々な事を読みたかった。人間には寿命があるから人はどんどん忘れていくからだからこそ「本」はあるのだと思います。