山人論から常民論へ
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三島由紀夫が次のように語ったことがある。「わたしは常民の学=民俗学によって祀り棄てられたモノたちに思いを馳せる。民俗学はその発祥からして屍臭の漂う学問であった」
著者は、その常民の外部に祀り棄てられた異類異形のモノたちを一つひとつ掘り当ててゆかねばならない。それが自らの柳田国男論の起点にしたいと言う。『遠野物語』には、類型的な河童伝承とは異質な、生まれた子供をその異形性ゆえに河童の子として酷たらしく殺し、また棄てる話が載っている。
柳田国男は現在の事実への執着が強く、『遠野物語』は単なる昔話の収集の書には終わらず、物語と事実のはざまに引き裂かれた独特の貌をもつことになった。現在という場所に過去を貫流させる方法をとる。それがその後の柳田民俗学の知的スタイルを支えつづけた基本的構えであったと言われる。
山人を論じるときも、つねにそれを現在の事実との関わりのうちに説こうとする。南方熊楠への書簡の中でも、山人や山男について、「先住民の敗残して山に入りし者の子孫」と規定した傍に「今も存す」と書き添えている。
ところが、その執拗なこだわりの故に、やがて山人論を棄てざるをえないようになっていく。その陥穽に気づいた柳田は〈山人〉論から〈常民〉論へと展開していく(雅)