インターネットデパート - 取扱い商品数1000万点以上の通販サイト。送料無料商品も多数あります。

内田百けん集成22 東京焼盡

価格: ¥1,050
カテゴリ: 文庫
ブランド: 筑摩書房
Amazon.co.jpで確認
ユーモア(ヒューモア)とヒューマニズム ★★★★★
 百鬼園の随筆の魅力は、その底堅いユーモアにある。彼の人生を覆った借金苦や東京大空襲による家の喪失とその日暮らし等を、ユーモラスに淡々とやり過ごすその生き方は、今の時代でも何かしらの不幸や逆境の下で生きている人々には勇気さえくれるだろう。

 でも、そのユーモアの奥底には常人には計り知れない胆力と純朴さ、人間に対する冷淡に覚めた目がある。ヒューマニズムではあるのだが、基本的に人間という生き物を突き放して観察し、一周まわったところで愛おしむような視線が感じられる。ソクラテスが死ぬ時にその弟子達は笑い転げたというエピソードがあるが、限界状況で何故か湧き出てくるこの種の「笑い」=「ユーモア(ヒューモア)」が、百鬼園のヒューマニズムの根底にあるのではないだろうか。

 火事場見物と飛行機が好きだったことが理由で空襲下の東京に残った彼の残したこの日記には、戦後に白々しく花開いた反戦的な言調は全く無い。淡々と戦時下でのその日暮らしのキツさが語られるばかりの日記だと言って良く、所々に大政翼賛会や文学報告会、軍部への批判が挟まっているものの、それがメインでは無い。(玉院放送を聴きながら理由も無く涙したというエピソードを語っていることからも、彼の政治的態度は寧ろ単に当時の日本人の一般的感覚とそれ程違わなかったのだろうと思う。)
 
 なお、この日記を編纂した元教え子の平山三郎(=「阿房列車」シリーズの「ヒマラヤ山系」)によると、GHQの検閲対策でアメリカ軍に対する辛辣なコメントは言葉遣いが一部変えられたという。つまり、僕らが今読んでいるこの日記は、オリジナルではないということだ。こんな政治的に無害な日記でも終戦直後の言論統制下ではフィルターをかけられてしまったというエピソードには驚いてしまう。そして、そんな時代だったからこそ、彼の底堅いユーモアは同時代の人に愛されたのだろう。
日常と非日常 ★★★★☆
 この作品は百閒の手による日記文学としての価値よりも、歴史的な資料としての価値の方が高いと思います。

 昭和十九年十一月一日水曜日から昭和二十年八月二十一日火曜日まで、百閒は自分の行動から、周囲の人々の様子、何時に警戒警報が鳴って、何時に空襲警報に変化し、何時に解除になったか、爆撃された場所、敵の飛行部隊の規模、闇市場での物品の値段の移り変わり、配給の様子、などなど、数え上げたらきりが無いほど、戦時下の庶民の暮らしにおける情報のほぼ全てといってもよいほどの情報量を、この上なく簡潔な文章で纏め上げています。
 そしてそんな歴史的価値のある文章からは、戦時下で生きている庶民の極日常的な生活と、空襲と食糧難という非現実的な世界とが、水と油のように決して合い入れないものだということが伺えます。

 「いつものように身支度をし、いつものように出勤して、いつものように帰ってきて、いつものように夕食を食べて休んだ」という一日の記述の一番最後に、突然「今日どこどこの地区が灰燼と化した」という文章がポンと現れる。

 この不可解な感触と違和感は、戦争という究極の非日常を克明に描いた日記という形式以外からは、決して受けることの無い感覚でしょう。
 最後に、余談ですが、『蛍の墓』を見るとドロップが食べたくなるのと同じように、この日記を読むとキャラメルと牛乳が食べたくなります。