昭和十九年十一月一日水曜日から昭和二十年八月二十一日火曜日まで、百閒は自分の行動から、周囲の人々の様子、何時に警戒警報が鳴って、何時に空襲警報に変化し、何時に解除になったか、爆撃された場所、敵の飛行部隊の規模、闇市場での物品の値段の移り変わり、配給の様子、などなど、数え上げたらきりが無いほど、戦時下の庶民の暮らしにおける情報のほぼ全てといってもよいほどの情報量を、この上なく簡潔な文章で纏め上げています。
そしてそんな歴史的価値のある文章からは、戦時下で生きている庶民の極日常的な生活と、空襲と食糧難という非現実的な世界とが、水と油のように決して合い入れないものだということが伺えます。
「いつものように身支度をし、いつものように出勤して、いつものように帰ってきて、いつものように夕食を食べて休んだ」という一日の記述の一番最後に、突然「今日どこどこの地区が灰燼と化した」という文章がポンと現れる。
この不可解な感触と違和感は、戦争という究極の非日常を克明に描いた日記という形式以外からは、決して受けることの無い感覚でしょう。
最後に、余談ですが、『蛍の墓』を見るとドロップが食べたくなるのと同じように、この日記を読むとキャラメルと牛乳が食べたくなります。