チョジェ・リンポチェ8世はいろいろなこういったことを奉じる人のこころの中の意図について考察しています。
高位のイニシエイトであることを主張し、「直感力」もある自分は他の人とは違った特別な存在だと感じることでとても快い、いい気持ちを感じるものらしいですが、ここにエゴの使うトリックがあります。
リンポチェはこれをイミテーションゴッド(デーヴァ・プットラ・マーラ:天子魔)の罠と呼んでいます。
瞑想を教え、追従する信徒に支えられながら、相互にもたれあいの関係を作り上げることも観察することができます。
これを妨げるものを悪い波動であると断じて退けるのです。心地よさを妨げるからです。
本人は悟りや心の平安に向かって進んでいると思っていますが、実際にはエゴが強まっているだけなのです。
こういったところで「勉強」したことを人のためをよそおって「**をやればいい」とほのめかし、実際に具体的な内容を問われれば、「公開するものでない」といって引っ込める。こういったことが実際におこなわれているのは日常見聞きすることです。これはまったく自己満足のためであるといえるでしょう。そんな秘中の秘をしっているとおもいこむことによる特別な感覚なのでしょう。
特別な自分という幻想から覚めること自体が本当に必要なことです。
(1)イエスは磔刑によって死に、転生のそとへ出て行った。
(2)イエスをのっとっていた「マイトレーヤ」は、イエスの肉体をコントロールして「光の肉体」をつくり、
四十日間にわたってこれを使用したのち、解体した。
明らかに「イエスの復活」を否定していますね。
いうまでもなく、正統キリスト教はイエスのペルソナにおいて人性と神性は「分離も混同も無く」一つになっていると主張し、
(カトリック教会のカテキズム456以下参照)
イエスの復活は、死によって分離した肉体と霊魂の再結合であると教えています。
復活の身体は、物理的条件に拘束されない、変容した「栄光の身体」であり、より上位の現実である「天」へと統合されます。
(物理的な空気中という意味ではありません。)
これが「昇天」の意味です。(新約聖書「使徒行伝」第一章、カトリック教会のカテキズム659以下参照)
したがって、「復活」して弟子に現れたのが、神人イエス以外の誰かであったなどと正統キリスト教は考えたりしません。
(ヨハネによる福音書第二十章、使徒行伝13:32、カトリック教会のカテキズム638以下など参照)
「欺くものが多く世に出て、イエスが肉体をとってこられたキリストであることを宣言しようとしない。
これが欺く者、反キリストである。」(ヨハネの第二の手紙)