カテゴリー思想史
★★★★☆
思考法としての「分ける」ということに関する原論のようなものを期待して読んだが,古今東西の哲学者や思想家が,世界をどのように「分ける」ことによって理解してきたかについての,事例集だった。
第1〜2章では一と多という古来の形而上学的テーマについて,人類がどのような考えをもってきたか,ユダヤ・キリスト教,ゾロアスター教,仏教あるいは老荘思想,易教,さらには古代ギリシア哲学などが紹介される。創造主の観念の出所についても唯物論的思考との対比しながら書かれている。第3章では,ピュタゴラス派,アリストテレス,カント,フィヒテ,シェリング,ヘーゲルについて,ちょっとした「カテゴリー思想史」のように記述されている。ここまでは,けっこう興味深く読むことがてきた。
4章5章は個人的にはいまいち。動植物学の分類法が紹介されたり学問の区分け(体系)について記されたりするのだけれど,ただの事例の羅列,紹介に終止していて,そういう内容なら中尾佐助『分類の発想』のほうにずいぶん分がある。
総じていえば,1〜3章の内容(これだけでも読む価値はあると思う)を,もっと思想史的に一貫した構想でもってふくらまして書かれていたら良かったのにと思う。あれこれ盛りだくさんではあるけれど,散漫な印象で,一冊を通して何が言いたいのかわからない。まとめとして三つの教訓が書いてあるけれど,読むとちょっとがっかりである。
1.分類は認識や行動のために人間がつくった枠組みであって,存在そのものの区別ではない。
2.分類をつくる際には,かならず「その他」や「雑」の項目をおいておくことが有用である。
3.「わかる」とは,その分類体系がわかるということであり,「わかり合う」とは,相互に相手の分類の仕方がわかり合うことである。
安易な「分ける」と困難な「わかる」
★★★★★
「文明の衝突」などといういかがわしいでっち上げによって開始された戦争が未だ続いているが、こうした世界史的闘争の原理こそが「分けること」と「わかること」のギャップに潜んでいることが「わかる」。世界史的闘争は、何も異国の地だけで進行しているわけではなく、著者が指摘する「若い奴はわからない」という感懐にも、最近の「ニート、フリーター」という言葉にも生々しく息づいているのだ。この極めて控えめで折り目正しい名著は、「とくにお急ぎの方へ―おしまいの第五章を読んでください」という実用書然とした端書(前書き)の一文から始まっており、ここで「3つの教訓」を挙げて本書を締めくくっている。冒頭の「教訓その一」は、人間の認識や思想、哲学の問題はある意味これに尽きるというべきものだ。
<分類は認識や行動のために人間がつくった枠組みであって、存在そのものの区別ではない>
池田清彦の『分類という思想』にもあったが、分類とは特定のイデオロギーからなされた枠組みなのであって、これは特定の側からの特殊な見方に過ぎないのである。にもかかわらず、我々は、この「分ける」ということでもって「わかる」という認識に直結してしまう。これは安心したいという怠惰な精神であるとともに、複雑怪奇な現実を片側から裁断してしまう傲慢でもある。あらゆる世界に充満している精神ではないか。「癒し」とかいう卑しい発想も、この精神から流れ出た汚水というべきだ。
講談社現代新書のときに読んで以来ひさしぶりに手に取ったが、欺瞞と悲惨いや増す今こそ輝く名著である。