文化大革命 (山崎雅弘 戦史ノート 25)
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「文化大革命(文革)」とは、1960年代の中頃から、約10年間にわたって中華人民共和国(以下「中国」と略)に吹き荒れた、政治的・文化的動乱を表す言葉である。
「文化」面における「大」きな「革命」という名称だけを見れば、あたかも日本の明治時代における「文明開化」と同様の、平和的な社会意識の変革であったかのような印象を受ける。しかし、この動乱の中核を占めていたのは、中国という巨大な国家の最高権力者の座をめぐる、毛沢東(もうたくとう)とその政敵による壮絶な「権力闘争」であり、「文化」面における「大」きな「革命」とは、そうした生々しい闘争を粉飾するための方便に過ぎなかった。
「文化大革命」の幕が開けた1965年当時、毛沢東は相次ぐ経済政策の失敗により権力基盤を一時的に失い、国家主席(元首)の地位を、党内の人望が厚い劉少奇(りゅうしょうき)に譲っていた。だが、最高権力者へと返り咲く野心を捨てきれない毛沢東は、建国以前から彼の崇拝者として知られた紅軍の俊英・林彪(りんぴょう)や、夫とは異なる性質の政治的野心を胸に秘めた妻・江青(こうせい)らと連携して、権力奪回の構想を練り、反攻開始のタイミングを慎重に見計らった。
そして、1965年11月、ある歴史劇の内容に関する批判論文の党機関紙への掲載を皮切りに、毛沢東・林彪・江青の三者に率いられた勢力による「文化大革命」という政治的反攻作戦が開始されたが、彼らは中国が軍事的な「内戦」状態に陥ることのないよう、巧妙に「文化」的な理由付けで自らの行動を正当化しながら、政敵である現政権の有力者と軍の長老を一人また一人と失脚させ、その大半を無惨な死へと追いやっていった。
その結果、中国政府の要人が1978年に公式の場で発表した控え目な数字に基づいても、直接の死者2000万人、直接の被害者1億人という、空前絶後の犠牲者を生む結果となった。
しかし、当時の中国は厳重な報道管制を全土に敷いており、北京に駐在することを許可された少数の外国メディアの特派員も、現在進行中の「文化大革命」を全面的に「礼賛」することを条件に取材を認められた。そのため、日本人を含む同時代の外国人は、中国国内で実際に何が起こっているのかを正確に知ることができず、冷酷な手法で国家権力を奪い取ることを目的とした「仁義なき戦い」に他ならない「文化大革命」を、理想郷(ユートピア)の建設に向けた偉大な挑戦であると信じた学者や報道人も少なからず存在したのである。
それでは、毛沢東と林彪・江青らはそれぞれ、どのような思惑を胸に抱いて「文化大革命」を引き起こし、中華人民共和国の建国という大事業を共に成し遂げた「同志」たちを、無慈悲にも奈落の底へと突き落としたのか。そして、中国の歴史における「文化大革命」とは、いかなる意味を持つ出来事だったのか。
本書は、毛沢東一派による事実上のクーデターであった文化大革命の顛末を、コンパクトにまとめた記事です。2008年3月、学研パブリッシングの雑誌『歴史群像』第88号(2008年4月号)の記事として、B5判15ページで発表されました。現代中国に様々な形で後遺症を残す、大陸全土を紅い血に染めた政治的動乱の経過とその背景を知る一助となれば幸いです。
また、本書は戦史ノート第24巻「中国人民解放軍創設史」の続編に当たるもので、そちらには毛沢東や彭徳懐(ほうとくかい)、林彪、賀龍(がりゅう)などの主要人物の経歴や性格などを記したコラム記事なども収録されていますので、本書と併せてお読みいただくことをお薦めします。