ヴェルサイユ条約 (山崎雅弘 戦史ノート 28)
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今から95年前の1918年11月11日、フランスの首都パリから北東70キロに位置する「コンピエーニュの森」で、人類史上未曾有の惨事である「第一次世界大戦」を終結へと導く休戦条約が、連合軍とドイツ軍双方の代表者の間で締結された。それから7か月後の1919年6月28日、ドイツ代表団は忸怩たる思いで、ヴェルサイユ宮殿の「鏡の間」で、連合国との講和条約文書(いわゆる「ヴェルサイユ条約」)に署名した。これにより、ドイツは第一次世界大戦の敗戦国として、戦勝国への苛酷きわまりない賠償義務と政治・軍事の両面における屈辱的な制限を課せられることとなった。
この「ヴェルサイユ条約」は、全440条という膨大な条文で構成されていたが、敗戦国ドイツの戦勝国に対する各種の義務や禁止事項に加えて、第一次世界大戦後の新たな世界秩序を構築する枠組みとなる「国際連盟」の設立趣意なども盛り込まれていた。言い換えれば、ヴェルサイユ条約は一戦争の講和条約に留まらない、国家間の関係や紛争解決法を根本から見直そうという、画期的な意味の込められた国際合意でもあったのである。
しかし、よく知られているように、この条約はヨーロッパに永続的な平和と安定をもたらすことができなかった。第一次世界大戦後の新世界秩序で重要な地位を占めると期待された、集団安全保障体制としての「国際連盟」は、新たな時代の政治的潮流として出現した「共産主義(コミュニズム)」と「全体主義(ファシズム)」に対しては有効な抑止的効果を持たず、講和会議における拙速で場当たり的な領土画定作業が原因で生じた、ヨーロッパ諸国間の緊張や対立を解消する力も備えてはいなかった。
そして、敗戦国ドイツに登場した独裁者アドルフ・ヒトラーは、ドイツ国民がヴェルサイユ条約で「不当に課せられた」と感じた軍備制限を公然と破棄した上で、再興した武力を背景に、同条約で「不当に奪われた」とドイツ国民が見なす地域を次々と「奪い返す」ことにより、ドイツ国内で絶大な人気と支持を獲得していった。ヴェルサイユ条約が、新たな世界戦争、つまり第二次世界大戦を生み出した遠因あるいは種子であったとまで称される由縁である。
それでは、第一次世界大戦の休戦条約成立から、パリ講和会議を経てヴェルサイユ条約の締結に至るまでの七か月間に、戦勝国の間ではいかなる駆け引きが繰り広げられたのか。戦勝五大国と呼ばれたアメリカ・イギリス・フランス・イタリア・日本の代表団は、それぞれ何を自国の国益と考えて、パリでの講和会議に参加したのか。そして、第一次世界大戦の敗戦国ドイツの軍備に、ヴェルサイユ条約はどのような変化をもたらし、この講和条約の内容は後の第二次世界大戦にどう結びついたのだろうか。
本書は、第一次世界大戦の終戦時に、ドイツと連合国の間で取り交わされた講和条約「ヴェルサイユ条約」の成立過程とその主な内容を、コンパクトにまとめた記事です。2010年3月、学研パブリッシングの雑誌『歴史群像』第104号(2010年4月号)の記事として、B5判12ページで発表されました。短期的視野に基づく戦勝国の思惑が、長期的には予想もしなかった災厄を引き起こす結果となった、この条約の歴史的な意味を理解する一助となれば幸いです。