アパルトヘイト (山崎雅弘 戦史ノート)
価格: ¥0
目覚ましい経済発展を遂げつつある新興国の一つ、南アフリカ。だが、今から20年ほど前の同国では、このような活気に満ちた光景を誰一人として、想像することができなかった。なぜなら、当時の南アフリカは、悪名高い人種差別政策「アパルトヘイト」により、多数派である黒人の諸権利を少数派の白人が奪い取り、黒人などの有色人種の人権が無慈悲に抑圧される社会だったからである。
ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害などと並び、二〇世紀における最悪の人道的犯罪のひとつといわれるアパルトヘイトだが、この時代錯誤的な人種差別政策が国際社会で激しい非難を浴びつつも、世紀末近くまで生き長らえた背景には、単に現地の白人社会における黒人への差別意識に留まらない、きわめて複雑な政治的事情が存在していた。アフリカ最南端の戦略的要衝という南アフリカの地理的条件と、同国が産出する希少価値の高い鉱物資源の数々は、地球規模で東西冷戦というパワーゲームを繰り広げる超大国にとっても、無視できない要素だったのである。
また、1970年代から80年代にかけて、イギリスやアメリカでは市民レベルでのアパルトヘイト反対運動が活発に繰り広げられ、南アフリカ政府と良好な関係を維持して同国で商行為を行っていた大手銀行や石油会社、メーカーなどが、反対派の不買運動(ボイコット)の標的となった。これにより、収益と企業イメージの両面で痛手を被った各社は、世界全体での長期的利益を考慮して、最終的に南アフリカからの事業撤退を決断した。
しかし、日本国内では大企業を動かすほどのアパルトヘイト反対運動は盛り上がらず、政府も各業界の利益に配慮して、南アフリカへの経済制裁を手加減する姿勢をとり続けた。そして、アメリカで反アパルトヘイト法が成立し、同国の大企業の多くが南アフリカとの取引を停止した一九八七年、日本は遂に、南アフリカにとって第一位の貿易相手国となり、間接的とはいえ、アパルトヘイト政策の延命に力を貸す役割を果たしていた。
それでは、南アフリカでいつ、どのようにして、アパルトヘイトという制度が誕生したのか。人権問題に敏感な欧米諸国や日本の政府は、この問題にどう対処したのか。そして、第二次世界大戦後にヨーロッパの植民地から脱却し、黒人政権が次々と誕生していたアフリカ大陸で、なぜ南アフリカの黒人だけは、最後まで虐げられ続けたのか。
本書は、南アフリカにおける人種差別政策「アパルトヘイト」とその前史を、コンパクトにまとめた記事です。2010年7月、学研パブリッシングの雑誌『歴史群像』第102号(2010年8月号)の記事として、B5判14ページで発表されました。日本では一般的に「他人事」のように語られることが多いアパルトヘイトですが、その歴史を振り返れば、日本人の人権意識を改めて問い直す、重い主題であるように思われます。