レニングラード包囲戦 (山崎雅弘 戦史ノート)
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1939年9月から1945年8月までの、実質六年間にわたる第二次世界大戦の期間中、戦争の嵐が通り過ぎた地域では、老人や子供を含む多数の民間人を巻き込んだ悲劇が、数多く引き起こされていた。ドイツ軍による約900日間の攻撃で、飢餓と酷寒の苦しみに直面させられた旧ソ連の大都市・レニングラード(現サンクト・ペテルブルク)の市民もまた、そうした悲劇の犠牲者としてロシア国内で敬われ、彼らが経験した苦難の物語は、現在もなお若い世代へと語り継がれている。
バルト海に隣接するフィンランド湾の、ちょうど突き当たりに位置するレニングラードは、ドイツ軍のソ連侵攻作戦「バルバロッサの場合」における戦略目標の一つであり、ヒトラーはこの都市を手中に収めるために、侵攻兵力である三個軍集団のうちの一個を、東プロシアとレニングラードを結ぶバルト三国の正面に投入した。だが、ドイツ軍は電撃的な急襲でレニングラードを占領することに失敗し、ヒトラーは軍事的な占領を放棄する代わりに、同市の徹底的な破壊を前線部隊に命令した。
南のドイツ軍と北から来襲したフィンランド軍、西のフィンランド湾と東のラドガ湖に挟まれ、文字通りの「四面楚歌」の状況に陥ったレニングラードの市民は、外部からの燃料や食糧の供給を絶たれた上、ドイツ軍重砲による連日の激しい砲撃に晒され、精神的にも肉体的にも極限状態に追い込まれた。ドイツ軍が市の近郊に姿を見せた1941年8月から、戦火が市の郊外へと遠ざけられた1944年1月までの30か月間に、包囲下のレニングラードで失われた人命は、100万人とも120万人とも推定されている。
レニングラード攻防戦は、軍事的および政治的に重要な意味を持つ大都市を巡る争奪戦であったのと同時に、東部戦線における独ソ戦争の苛酷な実状を内外に知らしめた悲惨な出来事でもあった。市民に対する無慈悲な攻撃が比較的少なかった西方(フランスやベネルクス三国など)での戦いとは異なり、東部戦線のドイツ軍は、戦場がソ連国外へと移動した後のソ連赤軍と同様、戦場付近に住む敵国の民間人に対しても情け容赦なく振る舞い、軍隊組織が本質的に内包する無慈悲な一面を露呈していた。
それでは、独ソ両軍の将兵のみならず、一般市民をも巻き込んで繰り広げられた、900日にわたる熾烈なレニングラード攻防戦とは、いかなる戦いだったのか。そして、戦時下で脱出の道を断ち切られたレニングラード市民を待っていたのは、どのような運命だったのだろうか。
本書は、第二次世界大戦の東部戦線(独ソ戦)で繰り広げられた、ソ連第二の都市レニングラードをめぐる攻防戦の顛末を、コンパクトにまとめた記事です。2006年3月、学研パブリッシングの雑誌『歴史群像』第76号(2006年4月号)の巻頭記事として、B5判16ページで発表されました。単なる「英雄的美談」として語るには相応しくない、非情で冷酷な戦争の実像について、戦史を通して考える一助としていただければ幸いです。