火
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中央病院のロビーは午後の診察を待つ人々であふれかえっていた。私は動悸を覚えながらも病院案内のボードを見、眼科を探した。外来は二階、病棟は新館の四階。表示をたよりに新館への通路を歩く。エレベーターホールに出たところで私は立ち止まった。すぐそこのガラスの壁の外にテレビカメラやら仰々しいマイクを持つマスコミの人間が、十数名もたむろしていた。そこは喫煙ゾーンになっているのか、全員が煙草を吸っていた。
私は向きをかえてロビーに戻ろうとした。確かめるまでもない。あれは現実なのだと頭の中で声がした。
「あの、」
突然肩を叩かれて、私は心底ぎょっとした。だが、声をかけてきたのはさわやかな笑顔を浮かべた白衣の医師だった。まだ若く、素朴な青年然とした雰囲気に見覚えがある。私は目を細めて青年を見つめた。
「ええと、どなたでしたっけ?」
「覚えてませんか? 夕べ『樫』で隣の席に座った……」
私は息を飲んだ。シアトルに行っていたという恰幅のいい男、その中年男に腰を抱かれ、耳元になにやら囁かれて笑みを浮かべていたジーンズ姿の青年。夢の中の出来事のように、二人の姿がぼんやりと脳裏に浮かんでくる。
青年はなぜか照れた様子で頭をかいた。
「すいません。こんなところで声をかけて」
「え、いや、君は……、医者なのか?」
「ええ、研修医ですけどね」
「どおりで若い医者だと思った」
「あのう、どこかお悪いんですか?」
一瞬、質問の意味がわからなかった。が、すぐにここが病院だということを思い出した。
「いいや、その、そう、友人の見舞いに寄ったんだ」
「そうですか……」
私は青年の肩越しに、マスコミの群れに目をやった。青年も振り返り、険しい顔をした。
「夕べ、駅前で子供が目に煙草の火を押しつけられたでしょう? その子がここに入院してるんですよ」
「へえ、そうか……」
「ひどい事件ですよ。きっと犯人は酔っぱらってて、自分がやったってことも覚えてないかもしれない」
「そんなことあるかね」
「だって自覚してたら、そのままあの子を置き去りになんかできないはずですよ。もしそうだったらいっそうひどい。なんの罪もない子供の将来を踏みにじるなんて……」
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妻子がいて生活に余裕があり、若い男と関係を持っている五十代のエリートサラリーマン。仕事、家庭、若い恋人、すべてを手に入れて、人生を謳歌する男。しかし上機嫌で酔っ払い、煙草を吸いながら歩いていると、すぐそばで少年の悲鳴が聞こえてきて……。
スリラー・ゲイ小説。四百字詰め原稿用紙にして95枚の中編。