版としての評価はまずまず
★★★☆☆
ヘロドトス「歴史」の価値が高いことは言わずもがなですので、レビューはこの岩波文庫の版について。
・翻訳はすべて現代語で、末尾にやや「〜である」が多いのを別にすればこれといって不自然な言い回しなどは使っていません。比較的読みやすいと言えます。
ただ「ないし」を「乃至」、「たちまち」を「忽ち」と振り仮名なしの漢字で書いているあたりは少々不自然というか、不親切に感じられるかもしれません。
・注釈はすべて巻末にまとめられているのですが、これが非常に不便です。
「ハリカルナッソス」や「スキュタイ人」など現在では使われていない地名や民族名が頻出するので、よほど古代ギリシア史に詳しい人でない限り、逐一巻末を開いて注釈によく目を通さないと何が何の事かさっぱり分からないような構成になっています。
短い文字数ですむ簡単な注釈なら、例えば同じ岩波文庫の「レ・ミゼラブル」のように本文中に括弧小文字で書いてあるほうがよかったと思います。
上巻P231「誰を悼んで体を打つのか、ということは憚りがあるのでここにはいえない。」
P485訳注「オシリスの死を悼むのである。」
⇒「〜ここにはいえない(訳者注 オシリスの死を悼むのである)。」
中巻P10「ゼウスと、ボリュステネス河の娘〜」
P327訳注「現在のドニエプル河。」
⇒「〜と、ボリュステネス河(訳者注 現在のドニエプル河)の娘〜」
長い脚注にしても、同じ岩波文庫の「国家」(プラトン)のようにせめて図解くらいは本文中に載せてほしいと思いました。
この不便さのため、星-1
・訳注には興味深いものも非常に多いのですが、ところどころ余計なものも見られます。
中巻P53「従ってもしアナカルシスがこの家系の出であったとすれば、彼は自分が血を分けた兄弟の手にかかって死んだと承知せねばなるまい。」
⇒P339訳注「奇妙な言い方であるが、読者に言うべきことを当のアナカルシスに言いきかせている調子である。」
中巻P54〜55、スキュティア王スキュレスがギリシア風を好んで、オルビアの町へ行くとギリシア服を着て一人で広場を歩き回る、というくだりに、
⇒P339訳注「自分を生粋のギリシア人と見せかけたかったのである。」
上巻P231の「点燈祭(リュクノカイア)」という訳語について、「この訳語は青木氏のものを拝借した。」といった注釈も、
読者には無関係なのですから前書きか後書きに表明するのが妥当かと。
注釈は本文中では(1)というふうに数字だけなので、どんな注釈なのかは読んでみるまで分かりません。
興味深い注釈だろうかと思って巻末を開いてみると、「巻○、××ページ参照。」というだけの注釈だったということが多々あります。
誘導されたページを開いてみてもほとんど同じ内容が書いてあるだけだったりするので、あえて誘導する必要性には疑問が残ります。
こういった余分な注釈の多さから星-1、評価は3としました。
ただ、冒頭にも言いましたがヘロドトス「歴史」は非常に価値の高い本なので、古代ギリシア史や神話伝承に興味のある方は、図書館などでどの版が一番良いか吟味して、ぜひ一度読んでみることをお勧めします。
紀元前六世紀の好奇心旺盛な人物が見聞きしたこと考えたこと
★★★★★
ギリシア語の題名historiaは「尋ねる」の意味の動詞historeinが語源だそうです。誰かに尋ねて学んだことや知ったこと、歴史、記録、体験談などの広い意味があるようです。英訳のタイトルもhistoryですし、和訳のタイトルも「歴史」ですが、この本の内容は原題のhistoriaのとおり、歴史に留まらず、各地の風俗、動植物、地理などです。紀元前六世紀のギリシアに生きた著者が見聞きし考えたあらゆることを広く書き記しています。
本書をお勧めする理由を以下に書きます。
1. まず内容が面白い。紀元前六世紀の好奇心旺盛な著者が見たこと、聞いたこと、感じたこと、考えたことを自由に書いています。当時の人と現代に生きる私たちとの違いを感じさせません。人間は今も昔も失敗を沢山やってきたと感じますし、その反面、ずるかったり、卑怯だったり、他人に共感したり、と今と代わらない愛すべき存在だとも思います。何より著者が人間を愛しています。
2. 訳者の松平千秋さんの文章が素晴らしい。翻訳書を読んでいるといわゆる直訳調の文体に嫌気が差すことがありますが、さながら著者のヘロドトスが現代の日本語で書き下ろしたような自然な文章です。下巻の巻末には松平さんの手になる詳細な訳注も付いています。
3. 欧米の本には聖書と並んでヘロドトスからの引用が多い。ヨーロッパやアメリカの本を読む場合この本の知識が役に立ちます。読んでから意外とたくさん引用されていることに気付くと思います。
個々の挿話は読んでからのお楽しみなので触れませんが、読んでいて本当に楽しい本です。
古典がこんなに面白いなんて!大発見でした。
★★★★★
浅学にして50歳も過ぎてこの本に出会いました。多分読み難い、小難しい本じゃないかとの先入観があって・・・。でもでも古典がこんなに面白いなんて!大発見でした。
好きな歴史映画の中のいろんな疑問が解けたり、ギリシャ古典や旧約聖書との一致を見つけたりで以来座右の書になっています。
ヘロドトスは魅力に溢れた人物ですね。知識欲、論理的な考え方は現代と変わりません。
各地の知籍から、辺境の地の古老から伝承を聞き出す彼の姿が目に見えるようです。
歴史学であり人類学ともいえて、飽くことのない魅力が詰まった名著だと思います。
古代オリエントと列強の興亡
★★★★★
モンゴル帝国史の研究で高名な杉山正明教授は、中学か高校の頃に本書、ヘロドトスの「歴史」を読んですっかり虜になり、歴史というものの面白さに目覚めたのだそうです。
さて、本書が扱っているのは、世に「ペルシア戦争」と称されるアケメネス帝国とギリシア諸都市との抗争など、古代オリエントにおける諸民族の興亡史・地理・風俗の集大成です。
その中心をなすのはアケメネス朝ペルシの歩みですが、岩波文庫版の上巻では、一代の英傑キュロスの活躍により、ペルシアが宗主国メディアのくびきを脱し、リュディアやエジプトなど周辺諸民族に対する征服事業を押し進めていくさまが描かれます。多くの輝かしい勝利と幾つかの敗北を経て、最高権力者の顔ぶれは交代しつつも帝国は隆盛への道を突き進んでいきます。そうしたさなか、一部聖職者による権力簒奪の企てを粉砕して自ら王座を射止めたのがダレイオス大王その人です。彼は帝国の統合と安寧に特段の意を用い、国力を充実させながら、密かに他日あるを期すのでした。
聞いたことのない人名・地名が目白押しで、注釈をチェックするだけでもたいへんです。決して読みやすい本とは言えません。しかしながら、ヘロドトスが語る物語には、人々の営為と民族興亡のダイナミクスをストーリーとして示していくという意味で、まさしく歴史学の本質が凝縮されているように思います。それに、とにかくこの面白さ。相当の時間を割く覚悟が必要ですが、その値打ちはあると思います。歴史に興味を感じる皆さんには、是非読んでいただきたい書物です。
歴史というより地理かも
★★★★★
こんな書が個人によって書かれ、現在まで残っていることが奇跡的です。ヘロドトスが「歴史」を記述していた当時、彼が書いていたのは歴史というよりルポルタージュだったと言えましょう。筆の運びはいささか冗長なのですけれど、今となってはそれも一種の伝聞者の記録として貴重です。