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日本語は論理的である (講談社選書メチエ)

価格: ¥1,575
カテゴリ: 単行本
ブランド: 講談社
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議論の要に納得できないが ★★★☆☆
日本語は論理的、という主張の根幹は、1.日本語は「容器の比喩」が中心(「論文には内容がない」の「論文」は容器に見立てられている)、2.形式論理のうちの文の接続関係はベン図という集合を表わす円=容器で表わされる、3.したがって、日本語は、論理的である形式論理と同じ論理・同じ比喩に則っているのだから論理的だ、というもの。確かに「容器の比喩」とベン図、似ているといえば似ている。しかし、「だから日本語は論理的」と言われると、首を傾げざるをえない。形式論理というのは確かに論理的なのだろう。だが、形式論理をもってくるなら、そもそも各民族語が論理的であるとか論理的でないとかいうことは、形式論理に照らし合わせて決めるべきものなのか、そこからきちんと議論すべきではないだろうか。というように、議論の進め方の根幹に腑に落ちないところもあるのだが、いろいろと刺激的な論点も出されていて、言語(とくに言語教育)に興味のある方に一読を薦める。
興味ぶかい点は多々あるが,日本語が論理によわいことは反証されていない ★★★☆☆
著者は日本語が形式論理と同等であり論理的だという.「同等」ということばの意味がよくわからない.しかし,形式論理と 1 対 1 に対応するとはかんがえられないから,形式論理と対応づけられるという以上につよい意味はないだろう.日本語が論理的でないといわれるのは,形式論理と対応づけられないということではなくて,それとの対応関係のあいまいさが英語にくらべておおきいということだろう.それを否定する議論はこの本のなかにはないから,「日本語が英語とくらべて論理的でない」というかんがえを否定する根拠はあげられていないとかんがえられる.だから,この本はその主要なテーマにおいて失敗しているとかんがえられる.

しかし,この本にはおしえられることもおおい.著者は日本では外国人向けには学校文法より合理的な文法が教育されているのに,英文法を無理にまねた学校文法が支持者がほとんどいないのに昔のまま教育されていることを批判している.そこには制度的な問題があることを指摘しているが,民主党政権がそこにきりこんでくれることを期待しておこう.

また,著者は日本語においては母音を左脳できくが,英語をはじめたいていの言語においては母音を右脳できいていることを指摘し,それを小学校での英語教育の問題にむすびつけている.小学校で音声中心の英語教育をすれば母音を左脳できかなくなることを心配している.かんがえすぎのようにもおもうが,興味ぶかい議論ではある.
この本は、面白いがけっこう論理的でない ★★★★☆
日本語は非論理的であるとよく言われている。「小説の神様」と言われた志賀直哉まで終戦直後には「日本語廃止論」まで唱えてひどいことを言った。

本書はその反証の試みであり、「学校文法」が「自虐的言語観」の原因となっているとか、小学校英語教育は弊害だとかを唱える教育批判の書でもある。

著者の主張は次の3つからなっている。

(1)英語は「主体の論理」と違って、日本語は「空間(容器)の論理」である。

(2)日本語の論理の基本は形式論理である。想像可能性と記号操作可能性を備えており、従って日本語は論理的である。

(3)日本人は母音を左脳で聞き、英国人は右脳で聞く。このことが言語の論理構造の違いとなっている。だから脳機能が未定着な小学生段階での英語教育は有害である。

なかなか刺激的な日本語論で、その主張には共感するところが多く、とても面白い。しかし、著者の論理そのものには納得できないことが多い。素人には記号論理学や数理学的なアプローチが煙ったいということがあるが、やっぱりどこかヘンなのだ。

そもそも論理的でない言語なんてあるのだろうか。どうしても、不等号とか和集合を表現できない言語があるのだろうか。数式や論理式、記号を使わなければ、複雑な論理操作がしにくいというのはどの国のどの言葉でも同じだ。かといって言葉で考えることが不可能というわけではない。

「日本人の左脳」論は、音楽感性の違いとしてよく言われてきた。とはいえ、だからといって小学校英語教育が有害かといえば、やや論理の飛躍があるように思う。それなら帰国子女はみんな日本語がヘンなのか?むしろ、脳の可塑性が低下する10代以降の英語教育のほうが有害もしくは非効率だと言えないか。

この本は、けっこう論理的でない。
豊かな日本語 ★★★★★
日本語は非論理的だという蒙昧を啓く書。
人工知能学者の立場から日本語の論理性を解き明かす。
後半、そして通底するテーマとして、早期英語教育の危険性をうったえている。

おもしろく感じたので引用。
”川が見える”
この文の主語は、どこにあるかという問いかけです。
いろいろな主語がとれますよね。例えば、
私が、川を見ている。悠久の時が、川を見ている。(俯瞰的に)日本的な神々が、川を見ている。
言語学者は、このときの”川が”を目的語、対象語といったりするようです。

外国の文法を日本語に当てはめようとする初手が、間違いのような気はしますが。。。

たしかに、小学校の内に英語なんかの勉強をするより、日本語をしっかり教えて欲しかったです。
大人になって気づいたのですが、日本語では動詞の連用形が名詞化する特徴があります。
文法用語で書くと、ナンノコッチャなのですが簡単の話で、
走る→走り
例えば、”韋駄天走り”であるとか、
”ラグジュアリーなその走りは、大人を魅了する”とか。

日本語では文脈から動作の主体を類推できるので、いちいちかきません。
”ラグジュアリーなその走りは、大人を魅了する”とあれば、
車、もしくはエンジンのついているもの。そして、高級であることをいいたいのだろうなと、思うわけです。

論理的か否かは知りませんが、日本語は豊かです。
読んで啓発されたこと ★★★★★
> キーワード自虐的言語観、空間のアナロジ
この本を読んで、脳科学方面からの言語学へのアプローチは唯一生産的であることを認識しました。自虐的言語観に基づく欧米的思考法によるマインドコントロールの鬱屈から覚醒し日本文明を見直し元気づける効果があります。
1、自虐的言語観とはまさしく至言。小学校から英語を教えるという風潮には苦々しい感情を抱いていましたが、その害悪は最近増えてきた多動性障害児問題として切迫したものになってきているのではなかろうか。特に母親が、英語かぶれで中途半端な英語の口写しなどやると3歳になるまでに、言語形成の中枢部分が破壊され混迷してしまうのではないだろうか。
2、関数表現 f(x)を主体の論理と説明しているが、クワインの発明に基づく、この記号表現法は、欧米的、アリストテレス式の主語―述語形式(S−P)の表現を場所(トポスの論理)として構成しなおしたのではなかろうか。