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シンガポールの第二次大戦

価格: ¥0
カテゴリ: Kindle版
ブランド: 六角堂出版
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東南アジアのマレー半島南端にある街ジョホールバルから、幅1キロほどの水道を挟んで南に浮かぶ、東西42キロ・南北23キロの島、シンガポール。

1941年12月に太平洋戦争が勃発した時、赤道付近にあるこの島は、イギリスが東南アジアに持つ直轄植民地の一つだったが、「東洋のジブラルタル」とも呼ばれた戦略的重要性から、日本軍は同地の早期攻略を作戦目標の一つに位置づけていた。

山下奉文中将を司令官とする日本陸軍の第25軍は、対米英開戦と同時にマレー半島のイギリス植民地(英領マラヤ、現マレーシア)を素早い機動戦で攻略し、緒戦の勝利の勢いに乗ったまま、ジョホール水道を越えてシンガポールへとなだれ込んだ。そして、開戦から69日後の1942年2月15日、イギリス軍の現地司令官アーサー・パーシバル中将は山下中将と机を挟んで対峙し、打ちひしがれた表情で、日本軍への降伏を受諾した。

この英領マラヤとシンガポールのあっけない陥落は、日本海軍による真珠湾攻撃の成功に続く日本陸軍の「快挙」として、多くの日本国民を熱狂・歓喜させた。

しかし、対米英開戦に際して東條英機首相が内外に向けて発表した「米英のアジア植民地の解放」という大義名分は、マラヤとシンガポールには適用されていないことを、当時の日本人は知らなかった。現地から遠く離れた本土に住む日本人は、情報が統制される中で、政府刊行の雑誌『写真週報』などで紹介される「シンガポールの人々は日本軍による解放を歓迎しています」といった政治宣伝(プロパガンダ)を素直に信じていた。

それでは、太平洋戦争が始まった時、シンガポールはいかなる状況にあり、日英両軍はこの淡路島ほどの面積しかない小島で、どんな激戦を繰り広げたのか。日本軍はなぜマラヤとシンガポールの戦いに勝利し、イギリス軍はどのようにして敗北したのか。そして、シンガポールを占領下に置いたあと、日本政府はこの島の住民に対してどんな仕打ちをし、1945年の敗戦までの間、いかなる統治を行ったのだろうか。


本書は、太平洋戦争の序盤に行われた、日本軍による英領シンガポール島攻略作戦の背景と経過を、わかりやすく解説した記事です。2016年4月、学研パブリッシングの雑誌『歴史群像』第136号(2016年4月号)の巻頭記事として、B5判12ページで発表されました。

日本では一般的に、山下将軍率いる日本軍のイギリス軍に対する電撃的勝利として、華々しく語られることの多いシンガポール攻略戦ですが、日本が同地を占領したあと地名を勝手に「昭南島」と改称して、植民地からの独立など認めず、1945年8月の敗戦まで日本の直接統治下に起き続けたこと、大勢のシンガポールの市民を日本軍が虐殺したことなどは、あまり知られていません。

アジア有数の観光地として、日本人旅行者が訪れる機会も多いシンガポールですが、かつて日本軍がそこで何をしたのかを知れば、街中のあちこちに立つ戦争関連の記念碑の意味を、深く理解できるであろうと思います。


《目次(見出しリスト)》

◆「東洋のジブラルタル」と謳われた島をめぐる戦い

《アジアにおけるイギリスの戦略的要石(キーストーン)》
◆荒地を開拓して商業都市を造ったイギリス
◆シンガポールの中国人と日中戦争の関係
◆要塞化されたシンガポールとその二つの弱点

《太平洋戦争の勃発とシンガポールの存在感》
◆英連邦軍のマラヤ・シンガポール守備兵力
◆日本軍の英領マレー半島侵攻計画
◆「マレー電撃戦」の成功と英軍のシンガポール撤退

《激戦の舞台となったシンガポール》
◆モーターボートを使ったジョホール水道横断作戦
◆要衝ブキテマ高地をめぐる死闘
◆山下とパーシバルの対面と英連邦軍の降伏

《「昭南島」と改名されたシンガポール》
◆大義名分とは異なるシンガポール統治の実状
◆日本軍憲兵による「華僑大虐殺」と巨額の献金強制
◆ひとときの平穏と日本の敗戦、戦犯裁判