ベルリン陥落 1945
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戦史における軍人の発言や態度、行動を論評する際、重要な判断の尺度として使用されてきたのは「名誉」という概念である。
軍人にとっての最大の名誉とは、その時代ごとに慣習として定められた「戦争のルール」に従って正々堂々と敵軍に対峙し、知力と勇気を振り絞って敵と戦い、戦術面や作戦面での優位を確保して、明白な形での勝利を収めることだった。重要な会戦で勝利することに成功すれば、その陣営に所属する将兵は、元帥から一兵卒に至るまで、その立場に応じた「名誉」を獲得することができた。そして、その名誉を裏付ける物理的存在として各人に授与されたのが、従軍章や戦功勲章などの褒章である。
一方、会戦に敗北した側の軍人は、基本的には「名誉」を勝ち取るチャンスを逃した者と見なされ、敗軍の将は「不名誉」な存在であるがゆえに「兵を語るべきではない」との認識が、世界各国で広く語られてきた。
しかし、歴史上の重要な戦いを繙いてみれば、このような単純で図式的な「名誉」の概念が該当しないような事例も数多く存在する。第二次大戦末期の1945年4月から5月に繰り広げられた、ドイツ軍のベルリン防衛戦もまた、そのような事例の一つである。
東西両方向から怒濤のごとく迫り来る敵軍に対し、ドイツ軍の野戦司令官たちは、四面楚歌の絶望的な状況下で、軍人としての己の「責務」が何であるかという根源的な命題に否応なく直面させられることとなった。そして、現実的な戦況判断に立脚しない、願望や現実逃避の要素を色濃く含んだ「総統命令」と、圧倒的な敵の軍事力を前にして不安におののく前線兵士の「生命」のいずれを選ぶかという選択を迫られた彼らは、自らの信念に基づき、軍人としての己の立場のみならず命をも賭けて、重大な決断を下したのである。
それでは、ドイツ第三帝国の全面的な崩壊に際して、ドイツ軍人はいかにして敵と戦ったのか。そして、最後に残された「選良」たるべきドイツ軍の将星たちは、理念と現実の狭間で苦悩しながら、軍人としての「責務」をどのようにして全うしたのだろうか。
本書は、第二次世界大戦の最終段階でドイツの首都ベルリン周辺で繰り広げられた独ソ両軍の激闘の背景と経過を、わかりやすく解説した記事です。2005年1月、学研パブリッシングの雑誌『歴史群像』第70号(2005年2月号)の巻頭記事として、B5判17ページで発表されました。
1945年4月上旬の時点で、ベルリン市内には12万人の幼児を含む300万人以上の民間人が残されており、もしドイツ軍の野戦司令部がヒトラーの命令に従ってベルリン市街での徹底抗戦という道を選んでいたなら、この大勢の民間人は、数か月程度のベルリン陥落の遅延と引き換えに、同時期における沖縄での戦いに勝るとも劣らないほどの苛酷きわまりない運命をたどって犠牲となった可能性がきわめて高いと考えられています。そして、18世紀末に建造されたベルリンのシンボルとも言うべきブランデンブルク門や、黄金のヴィクトリア像を戴いた戦勝記念塔(ジーゲスゾイレ)、シャルロッテンブルク宮殿、マリエン教会や博物館島など、文化的価値の高い数々の建造物はすべて、無惨にも破壊されてガレキの山と化していたことでしょう。
果たして、敗軍の将には「名誉」は存在しないのか。あるとすれば、それはどのような形での「名誉」なのか。
本書と同時に刊行される、第43巻『樺太の戦い 1945』および第45巻『満洲の戦い 1945』と併せ、軍隊と国家、軍隊と国民のあるべき姿を考える事例研究(ケーススタディ)の材料として活用していただければ幸いです。
《目次(見出しリスト)》
軍人の名誉とはなにか
《嵐の前の静寂》
参謀総長グデーリアンの解任
赤い独裁者スターリンの思惑
ドイツ軍の首都防衛態勢
《吹き荒れる赤い嵐》
ハインリーチ将軍の抗弁
ソ連軍大攻勢の開始
ゼーロウ高地をめぐる死闘
《包囲されたベルリン》
各地で圧倒されるドイツ軍部隊
帝都ベルリン攻防戦の始まり
破滅への道を進むヒトラー
《ヴァルキューレの騎行》
ドイツ第9軍の西方への脱出
ドイツ第3装甲軍の崩壊
ヴェンクのベルリン救出作戦
《神々の黄昏──帝都の陥落》
総統ヒトラーの最期
ドイツ国防軍の降伏
敗軍の将に「名誉」はあるか