言葉と握手が代々伝わり続け文字となった物語
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ここは、ジョージア州。
少年・シェルダンは、ひざのすぐ上の撃たれた傷口に炎症を起こして、
草原に倒れて、意識を失いかけていた。
額に力強い手がふれ、顔に水があびせかけられた。
みがきこまれたマホガニーのような肌に
自分と同じ北軍の制服を来た少年がいた。
それが、シェルダン・カーティス(セイ)と
ピンクス・エイリー(ピンク)の出会いだった。
ピンクスは、シェルダンを介抱して、自分の家まで連れて行く。
家には、ピンクスの母親、モー・モー・ベイがいた。
モー・モー・ベイは、屋敷のだんながいなくなったあと、
屋敷から着るものや食べるものを持ってきて、
森から水を汲み、生き残っていた家畜とともにどうにか生きのびていた。
家族は戦争に行ったり、他の雇い人は安全なところに逃げたりしたが、
彼女だけはとどまり続けていた。
ピンクは、ここに自分たちがいたら母親が危ないと、セイの傷が治ったら、
ここから出てなんとか元の部隊を見つけ出そうというが、
セイはそれは嫌だった。
なぜなら、セイは戦場が嫌で脱走しようとして撃たれたから。
ここにいる間に、ピンクのことを知っていくセイ。
奴隷には自分たちのファミリーネームがなかったから、
だんなと同じエイリーを名乗っていたこと、
また部隊に戻りたいと思うのはこれが「おれの戦争だから」と
思っているから、
法律で禁じられていたけれども、だんなが本を朗読させたいがために、
彼に読み書きを教えたから、本を読めるということ。
ここには詩の本があった。こんなに分厚い本だ。
毎晩おれは、その本を大きな声で読まなきゃいけなかった。
この家には美しい本がたくさんあって、それが誇らしくもあったけど、
のろいもしたんだ。
奴隷に生まれるってことは、苦しみがどっさりってことなんだ。
でも、エイリーのだんなに読み書きを教わってから、
おれはわかったんだ。
たとえ奴隷でも、自分のほんとうの主人は、
自分以外にはいないっていうことを。
その晩、ピンクはダビデの詩篇を朗読した。
きこえるそばから、セイの頭のなかに絵がうかんできた。
ぼくも字が読めたらいいのにと思わずいったセイに
いつか教えてやるというピンク。
ふたりの手がつながった。
セイは、ピンクにいう。
この手はエイブラハム・リンカーンと握手した手なんだよと。
その翌々日、家を出発することにしたセイとピンクだが・・・。
これは、口伝で伝えられた物語である。
著者・パトリシア・ポラッコは、この物語が実話であることを
知っていると語る。
なぜなら・・・
シェルダン・ラッセル・カーティス本人が、娘のローザに語り、
ローザ・カーティス・ストウェルが、娘のエステラに語り、
エステラ・ストウェル・バーバーは、息子のウィリアムに、
ウィリアムは、その娘パトリシア、つまりは、著者に
話して聞かせたからである。
父が語ったこの物語を、娘のローザは、
ひとことももらさずに記憶にとどめ、
長い生涯のあいだに、何度も何度も語りつづけ、
それは代々語り伝えられ、パトリシアのところまで届いたのだ。
お話の最後は、
「この手はね、エイブラハム・リンカーンと
握手した手にふれた手なんだよ」である。
なぜ口伝で伝えられ続けたのか。
なぜパトリシアのところに来るまで書き留められることがなかったのか。
その答えは、パトリシアの自伝的作品である
『ありがとう、フォルカーせんせい』に描かれている。
ありがとう、フォルカーせんせい (海外秀作絵本)
パトリシア・ポラッコは、ディスレクシアの絵本作家である。
彼女は、幼い頃から絵の才能を発揮していたが、
文字の読み書きは苦手だった。
小学校5年生でフォルカー先生と出会い、
スポンジや映写機を使った特別レッスンを受けて
本が読めるようになったのである。
セイがなぜ字を読めなかったのか、その理由は語られていないが、
ピンクがダビデを読んだときに、
きこえるそばから、頭のなかに絵がうかんできた
と語っているところから
おそらくは彼もディスレクシア的傾向があったのではないか
と考えられるのだ。
そして父が語った物語をひとことももらさず記憶に
とどめようとした子ども達もまた
その傾向を持ち合わせていたのではないか。
おそらくは代々ディスレクシア的傾向を
持ち合わせていたがお話が大好きだった人々。
『ありがとう、フォルカーせんせい』に描かれているように、
子どもが5歳になると、
「ハチミツは あまーい。本も あまーい。
よめば よむほど あまくなる!」
と、ハチミツを本にたらして、
本を読む練習をする日を祝う儀式をしていたのは、
そういう人たちだったからこそではないか。
ピンクがセイに文字を教えるという約束は実現しなかったが、
パトリシアがフォルカー先生と出会って文字を獲得することによって、
この物語が書き留められて、海を越えることになったのだ。
ちなみにこの作品の原題は、Pink and Sayである。
セイの綴りがSayということ自体が、とてつもなく象徴的に思えるのだ。