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白痴 (下巻) (新潮文庫)

価格: ¥860
カテゴリ: 文庫
ブランド: 新潮社
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凡庸な人間の苦しみ ★★★★★
物語全体に関するレビューは他の方にお譲りしましょう。

ドストエフスキーの作品には、
一見筋とは全く関係ないように思えることを、
語り手が突然熱く語りだす脱線とも思える個所が何度も出てきます。
(しかし、よくよく見ると、決して脱線ではないのですが)
この脱線が、なんというかどれも読ませるものばかりなのです。

たとえば本書第四編冒頭で展開されるガーニャの心理分析。
ここで作者は彼を、独創的な人間でありたいと思いながらも、
ずっと聡明なありふれた人間に過ぎない、と言っています。
単なる平凡な人間であったなら、
ガーニャは、もっと楽に生きられたでしょう。
しかし、彼は不幸にも聡明だった。
どんなに努力したところで、あと一歩のところで
天才にはなれないという、自分の限界を見極められるほどに。
かといって、中途半端な能力に恵まれているがために、
彼は平凡な人のように分をわきまえて生きることもできません。

このガーニャのようなタイプの人、結構たくさんいると思います。
個性的であろうとして、わざと人と違うことをしようとする人。
作家や画家、ミュージシャンといった職業を、
「創造的である」という理由で、ほかの職業の上に高める人。
自分には才能があると思いながらも一方では恥をかくのが嫌で、
公の場に出る勇気はないくせに、他の人の才能をけなしてばかりいる人。
こういう人、身近な所で見かけませんか?

このガーニャの心理分析を読むためだけでも、
この作品は一読の価値はあると思います。
プーシキンの銅像の前でドストエフスキーが語った言葉 ★★★★★
 正直に言って、この小説の登場人物の心理には、幾ら読み返しても分からない部分が残る。先ず、ムイシュキンがナスターシャとアグラーヤに対して抱く感情は、一体何なのか?(恋愛感情でない事は確かである。)それが最後まで分からなかった事を私は、正直に告白する。だが、そこにこそ、この作品の魅力が有る事も確かである。
 この小説には、プーシキンの『エフゲニー・オネーギン』の影響が強く感じられる。かつて、ドストエフスキーは、モスクワにプーシキンの銅像が建てられた時、その序幕式でスピーチを行なひ、その中で、タチヤーナが、夫を選び、オネーギンに別れを告げる、『エフゲニー・オネーギン』の結末について触れ、「オネーギンの知的空虚に対するタチヤーナの道徳性の勝利である。」と言ふ意味の発言をして居る。『白痴』の物語と結末をドストエフスキーがプーシキンの銅像の除幕式で語ったこの言葉と重ねて考えると、ドストエフスキーは、『白痴』を、タチヤーナを苦しめた愛欲と道徳の間の葛藤を、自分と同時代の、全てのロシア人の葛藤として描いたのではないかと言ふ気がするのである。
 この小説を読んだ人は、黒澤明監督の映画『白痴』を見るべきである。ロシア(ソ連)の映画監督クリジャーエフは、この映画を「これまで世界で作られたドストエフスキー作品の中で最良の物」と呼んで居る。又、同じくロシア(ソ連)のコージンツェフ監督は、この映画を見た時、「日本に、こんなにドストエフスキーの分かる人が居るのか!」と感嘆したと言ふ。

(西岡昌紀・神経内科医)
ドストエフスキー的な<現在=秋葉原事件> ★★★★★
2008年6月8日、東京・秋葉原で大量通り魔事件が発生した。この事件を巡って、その場所や容疑者の置かれた生活状況から様々なことが語られている。毎度おなじみの精神分析学者や社会学者など、いずれもよくも毎度同じメンバーであるなあという気がするのは評者だけであるか。福島章、小田晋、東浩紀・・・。彼らの言説は件の事件を対象とした批評であるが、毎度毎度判で押したような言葉、論理。薬にも毒にもならないばかりではない、我々は彼らに総括してもらって思考停止するパターンが出来上がってしまっている。これも大いに危険な兆候であると言わざるを得ない。

たまたま木村浩訳の『白痴』下巻を読みつつあった評者は、本書の160頁以降、210頁くらいまでの件りに差し掛かっていた。<イポリートの弁明>というこの傑作でも有名な、しかし物語全体からするとサイドストーリーともいえる部分である。米川訳全集で数回、この木村訳でも2〜3回は読んでいる『白痴』であるが、図らずも秋葉原の事件と同期しての何度目かの繙読であった。「図らずも」などといったが、この160頁以降は何らかの暗合を感じないではいられなかった。この弁明を行なうイポリートの場合、弁明後の彼の目論見が滑稽なる失敗に終わる「落ち」になっていて、完全に悲喜劇ではある(大爆笑ともいえよう)。しかし、弁明という演説調の語りのなかに披瀝されるイポリートの心理や生理、さらに語り=騙りそのもののなかには、驚くべき何かがあると感じられた。何か、つまり当事件とのある種の暗合である。
これを読めば、かの事件の容疑者の心理がわかるとか、そんな図式的なものではない。そうではなくて、商売のネタとして批評している精神分析屋とか社会学屋などの御託とはおよそ懸け離れた、この事件への取っ掛かりがあるように思われるのだ。

少なくとも最近のドストエフスキー・ブームは、マーケティング屋が仕込んでどうにかなったようなものではないことがわかる。いや、これまでも常にそうだった。まともな学者は今一度イポリートの弁明を熟読してみるべきだ。
イポリートがここで語る一言一句が、この事件の容疑者の精神や行動と合致するというわけではない。しかし、何らかの暗合、期せずしての関連性があるように思われる。改めて熟読してみる価値はあろう。
また小説家は、現在の状況がドストエフスキー的状況にあり、これに応えるためには小説という形でしかなし得ないという覚悟と自負を持つべきではないだろうか。

小器用に気の利いた風な批評を撒き散らしている学者や批評家が全くの無力であること。否、むしろ一つの事件を、ケータイで撮影して喜んでいる輩と何ら変わりないということを示すためには、小説家がその想像力を十全に発揮して(それでも足らないかもしれないが)、取り組むべきだろう。わかったようなわからないような批評の作文で、事件を総括し、思考停止してはならない。我々は、もう長らくそうしているのではないか。それで当座、魂を安んじ、怠惰に過ごしてきた。その結果するものは、セキュリティーの強化などというもののみである。最早セキュリティー意識は、一般的にも骨がらみの浸透を見せている。これは相当に危険なことである。あるいは「ネットの闇」などというありもしない「柳の枝」に踊らされる。完全思考停止の全的に生命を委ねた状況なのである。

現在の犯罪に対する言説を巡っては、次のことだけはいえるだろう。精神分析とは「治癒」を目的とするというが、治癒を齎さない分析とは単なるおしゃべりである。いや、それ以前にお金儲けである。我々はその言説を新聞や雑誌やテレビというメディアを通して購入し、癒されているのである。それが成立するマーケットこそ「闇」というほかない。
錫の十字架の行方 ★★★★★
白痴とは何を指しているのだろうか。自ら白痴と名乗るムイシュキン公爵は持病の癲癇以外に市民生活に支障をきたす障害は認められない。しかし、この物語は彼が白痴であることを前提にして展開されている。彼を取り巻く環境にいる登場人物たちは日常社会において個々の問題を抱えていたが、彼の登場によって微妙に保たれていた均衡が崩れて常軌を逸してしまった。人々は彼の白痴(純粋な信仰心)というフィルターを通してエゴ、恨み、妬み、悲哀、喜び、愛情などの感情を暴露し、それらが負のエネルギーとして集約され、最後にロゴージンの殺人という結果となり終結した。本当の白痴となったムイシュキン公爵は、時間の経過とともに人々の記憶から消えていくのであろう。ロゴージンは遠いシベリアでムイシュキンと交換した錫の十字架を手にして宗教的感情の本質に触れるのだろうか、また、神に何を祈るのだろうか。白痴となったムイシュキンが、仮にロゴージン宅にあったハンス・ホルバイン模写絵画を見て神を認めることができなくても、神は彼を決して見捨てず救済するのだろう。しかし、私にはその救済がどういうことを指すのかわからない。
いやいいですよ ★★★★★
無垢の人は、どういう人かわかります。