「砂漠」に出よ――クイーンが遺した道標
★★★★★
法月綸太郎のもとに『雪密室』事件の際に知り合った
アイドル歌手・畠中有里奈から電話が掛かってくる。
彼女は、不審者に刺されたにもかかわらず、意識が戻ると、無傷だったという。
しかし、のちに彼女を刺した男が死体で発見され……。
山口百恵主演の《赤い》シリーズに代表される大映ドラマをモチーフに、
アイドルを襲う過酷な運命を描くことと並行して、名探偵の存在理由を
問い直そうとした作品。
上記の殺人にまつわる不可能状況は、有里奈を追い落とそうとする者達の
策略に端を発するものですが、偶然や錯誤が連鎖されることで、彼ら自身、
思いもしなかったメビウスの帯のような事態を生み出してしまいます。
しかも、このねじれた事件が、過去に有里奈の親世代に起きた
悲劇を反復したものであることが、のちに明らかになります。
加えて本作には、そうした本筋の他に、八〇年代アイドル論が挿入されています。
山口百恵的なスターを〈神〉とあがめた七〇年代から、自らが虚構であることを
隠さず、むしろ、その虚構性を売り物とした、シミュラクルとしての八〇年代の
おニャン子クラブに至る変遷――。
一見、物語とは無関係に思えるこのパートは、作者が
直面した〈名探偵〉の問題のアナロジーだといえます。
〈名探偵〉のシミュラクルにすぎない綸太郎が、アイドルの、そして西山頼子の
シミュラクルである有里奈を救うことで、自らの再生をはかろうとする構図を
本作から、見て取ることができるからです。
そして、『九尾の猫』で引用され、本作においても何度も言及される聖書の言葉、
〈神はひとりであって、そのほかに神はいない〉
これをミステリの文脈で捉えれば、探偵は神にはなれない、ということです。
作中で、この言葉について散々悩んだ綸太郎は、
苦悶の果てに、一つの啓示を得ることができます。
「砂漠に出よ」
しかし今度は、この内実を巡り、再び作者は悩むことになるのです。
初期三部作の完結編
★★★★★
法月綸太郎のもとに『雪密室』事件の際に知り合った
アイドル歌手・畠中有里奈から電話が掛かってくる。
彼女は、不審者に刺されたにもかかわらず、意識が戻ると、無傷だったという。
しかし、のちに彼女を刺した男が死体で発見され……。
山口百恵主演の《赤い》シリーズに代表される大映ドラマをモチーフに、
アイドルを襲う過酷な運命を描くことと並行して、名探偵の存在理由を
問い直そうとした作品。
上記の殺人にまつわる不可能状況は、有里奈を追い落とそうとする者達の
策略に端を発するものですが、偶然や錯誤が連鎖されることで、彼ら自身、
思いもしなかったメビウスの帯のような事態を生み出してしまいます。
しかも、このねじれた事件が、過去に有里奈の親世代に起きた
悲劇を反復したものであることが、のちに明らかになります。
加えて本作には、そうした本筋の他に、八〇年代アイドル論が挿入されています。
山口百恵的なスターを〈神〉とあがめた七〇年代から、自らが虚構であることを
隠さず、むしろ、その虚構性を売り物とした、シミュラクルとしての八〇年代の
おニャン子クラブに至る変遷――。
一見、物語とは無関係に思えるこのパートは、作者が
直面した〈名探偵〉の問題のアナロジーだといえます。
〈名探偵〉のシミュラクルにすぎない綸太郎が、アイドルの、そして西山頼子の
シミュラクルである有里奈を救うことで、自らの再生をはかろうとする構図を
本作から、見て取ることができるからです。
そして、『九尾の猫』で引用され、本作においても何度も言及される聖書の言葉、
〈神はひとりであって、そのほかに神はいない〉
これをミステリの文脈で捉えれば、探偵は神にはなれない、ということです。
作中で、この言葉について散々悩んだ綸太郎は、
苦悶の果てに、一つの啓示を得ることができます。
「砂漠に出よ」
しかし今度は、この内実を巡り、再び作者は悩むことになるのです。
複雑な内容です
★★★☆☆
冒頭に『西村頼子の霊前に捧げる』とあったので、『頼子のために』の続編かと思って読み進めて行ったのですが、実は『雪密室』からの続きと考えた方が良さそうな内容でした。
とにかく長い推理小説です。600ページ以上あります。私は日本で読み始めて、ニュージーランドに戻った後に読み終えましたので、時々話の筋を忘れてしまいそうになりました。まとまった時間を作って一気に読み終えた方がいいかと思います。
内容は『雪密室』で出生の秘密で脅されていたアイドルがライバルのプロダクションの陰謀に巻き込まれて、殺人の疑いがかかってしまうのを、法月綸太郎が推理で助けようとするお話しなのですが、小説の長さに比例する複雑さです。気合い入れて読む必要のある推理小説です。
名探偵として
★★★★☆
1992年に講談社ノベルスとして出たものの文庫化。
『雪密室』の続編であり、『頼子のために』の完結編。名探偵であることに悩む法月綸太郎に、一応の答えが与えられる。そのため、著者の最大の持ち味である「後味の悪さ」が本書にはない。それを不服とするか、納得するかは読者次第。私としては、物足りない印象が残った。
トリック自体は、複雑だが平板。「名探偵とは何か」という問いに重点が置かれているからだろう。しかし、この厚さを退屈させないのはさすが。
『雪密室』と『頼子のために』を先に読んでおくべき。
法月綸太郎のプライマル・スクリーム
★★★★★
1992年4月発表。このミスで2005年第1位を獲得した『生首に聞いてみろ』が2004年9月30日発表だから、なんと12年間もスパンがあったことになる。。このミスで2005年第1位にもかかわらずこの本は新書・文庫とも廃版らしく、オークション市場では5,000円くらいの値がついている。(●^o^●)
筆者はこの本を『頼子のために』・『一の悲劇』とあわせて三部作として捉えている。本作にも『頼子のために』とシンクロする場面が登場してくる。もう一つのシンクロがエラリー・クイーンとのシンクロで、『九尾の猫』以降の自信喪失・自己存在不明・純実存主義的な綸太郎となっている点だろう。エラリーのように綸太郎は『探偵自身の存在』について悩み、ついに本作で打破することになる。三部作を共通して貫くテーマは(個人的には『ニの悲劇』もだと思うが)家族とはどういうものであるのかということである。『家族』と言う名の構成物を綸太郎はいつも考えさせられることになる。
12年間のスパンがあいた最新作『生首に聞いてみろ』においてもそれは綿々として連鎖し依然として法月綸太郎の中心テーマである。ジョン・レノンの『God』やユダヤ教的思想を根底に持つクイーンの主張も全てが同じベクトルを示していることに筆者はこの段階で気がついている。つまり、
God is a concept by which we measure our pain. そして
神はひとりであって、そのほかに神はいない。
である。最終章『安息日を憶えてこれを聖潔くすべし』は作者の終結点の解説にほかならない。言ってみれば本作は法月綸太郎のプライマル・スクリームであると言えるだろう。かくて復帰には12年の月日を要したのである。
人間らしく悩み続ける心弱きこの探偵をそれ故に僕は愛してやまないのだ(●^o^●)。