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免疫の意味論

価格: ¥2,376
カテゴリ: 単行本
ブランド: 青土社
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免疫って面白い ★★★★★
2010年4月21日、多田富雄先生が逝去された。享年76才

 多田富雄先生の『ダウンタウンに時は流れて』は自伝的エッセイとのことだが、紛う方ない青春小説の傑作だ。
1960年代の初頭のデンバーを舞台に、三つの短編が並ぶ。
読書中にペトゥラ・クラークの『ダウンタウン』のメロディーが、頭の中で鳴り響いていた。
読み終えた今も、楡の木が大きく枝を広げ、夏の光が疎らな芝生をリスが走るのが、目に見えるようだ。
あるいは、夕暮れのラリマー・ストリートを彷徨する著者の絵が浮かぶ。
平易な文体だが、気品のある美しい文章を久しぶりに読んだ気がする。

 免疫学者の多田富雄先生を、『免疫の意味論』(1993)で知った。
同じころ、生命誌の中村桂子さんや唯脳論の養老孟司氏なども読んだ。
もう、十五年以上前になる。
一年間くらい、生物学関係の書物を読みふけった。

 多田富雄先生は難しいことを易しく書いてあるので、実は何も解っていないのだが、解ったつもりにはなれた。
免疫のリンパ・システムの再帰的ネットワークのうちに内部イメージを形成し、外部からのストレンジャーの侵入により、反応のネットワークが起動して、抗原を認識する。このことは、再帰的に閉じたネットワークと、外部からの侵入にさらされるという開放性の結合を意味する。閉じた内部イメージが一揃いの相補的な断片が入ったジグソーパズルの箱だとすると、外部から侵入した断片と内部の断片がくっつき得る。
もしくっつくと、パズルの絵は変わる。これが、閉じているが開いてもいる、免疫の認識のメカニズムである。
認識の起源は、自己(Self)を知ることにほかならない。

 つい調子づき、上の認識のメカニズムは組織適合抗原に委ねられることを読み、愚かにも解ったつもりになる。
私という『自己』は次々と遭遇する新しい体験に揺さぶられながら、昨日も今日も、そして明日も基本的には同じ『私』が存在することを学ぶ。

 やがて長野敬氏の生物学の入門書を読んで、サプレッサーT細胞の発見が多田富雄先生だったことを知る。ヘルパーT細胞は過剰な情報活動により、B細胞の抗体生産を誘導する。サプレッサーT細胞は、ヘルパーT細胞による過剰な免疫反応を抑制する役割を担う。

 多田先生は2001年、脳梗塞で倒れ重度の障害をもちながら、回想の中でデンバーを思い出し、キーボードを叩き、冒頭の青春のレクイエムの秀作を綴った。

 私事だが、1995年の正月、箱根ホテル小湧園の恒例の『プログラミング・シンポジウム』に参加する。まったくの畑違いだが、業務命令だから仕方がなかった。だが、僥倖もあった。
 多田富雄先生の招待講演を聞けたからだ。当時、多田先生は、東京大学を退官され、東京理科大学 生命科学研究所の所長に就任されたばかりだった。

 『免疫の意味論』のスーパーシステムの話が講演の主題であった。
 ビクビクしながら、バレラの自己言及性について、質問をした。
多田先生はバレラとはパリで共同研究したこともあるそうで、愚問にも丁寧に解説頂き、ついでオートポイエーシスについても平易な説明をしてくださった。
講演が終わると、上品な女性(奥様だとおもわれる)に連れ添われ、すぐに車で帰られた。
私もこれ以上、長居は無用と会場を後にした。

 多田先生は2001年に倒れられたが、先生が本当に尊敬されたイエルネのような晩年でなく、倒れられた後は、医学以外の有り余る才能を余すところなく発揮され、まことに豊穣な晩年であられた。
今は、大好きなペトゥラ・クラークのダウンタウンを存分にお聴きになられていると思う。合掌。(2009年12月29日記事に補筆)
通りすがりのバイオ研究者 ★★★★☆
自己と非自己を区別するのは、意識/考え方、といった脳の働きに由来する、
抽象的な現象ではなく、免疫に依存するという考え方は新鮮に感じた。
改めて考えてみると、身体的にはその通りだと思う。

他にも免疫を中心に、病気、自己寛容のシステム等、色々な記述があったが
やや難解であった何回か読み直して理解を深めたいと感じた。
究極の問い「自分とは何か」へのもう一つのアプローチ ★★★★★
現在、難病と言われる病気はほとんど自己免疫疾患であるし、花粉症、アレルギーなどの免疫の暴走はいまや身近。世紀末の病気 AIDS は後天的免疫不全症候群。となると、免疫とはいかなるもので、どのようなメカニズムで働くのか、上に挙げた病気はどう発病するのかなど、免疫に関する疑問は極めて現代的な問いである。本書には執筆時 (1993年) の免疫研究の最前線の知識の基づいて、これらの疑問に答えようとしている。免疫機構は複雑で、分かりやすいところもあれば、分かりにくいところもある。ランダムな変異で作られた様々な種類のT細胞うち、自己に反応するものが胸腺で破壊されることによって、自己以外の物質に反応する免疫機構特有の機能を持つ、というところまでは分かりやす。しかし、そこから先は、B細胞、インターロイキンたら、インターフェロンたら、免疫グロブリンやら、いろんな役者が複雑に絡み合って、飛行機の中で読んだのでは正確に理解するところまで行かなかった。実際にはまだまだ分かっていないことだらけなのだから、素人が分からなくても仕方ない。それでも、免疫機構の複雑さと、精巧さの一端に触れることができたのは、極めて興味深かった。しかも、それ、老化や癌、寄生虫との戦いなど、面白い話題へと発展していくのは、大変面白い。

途中何ヶ所かお経読みになりかけながらも、最後まで興味を持って読むことができたもう一つの理由は、著者が「自己とは何か」と言う問いかけを、様々な角度から提示し続けているからだ。免疫とは「自己以外を排除するメカニズム」に他ならない。従って、「自己とは何か」という問いは、免疫機構の本質そのものなのである。そして、場当たり的対応しかできない生物の各細胞の行動を見ていると、「自己とは何か」というのがいかに難しいことであるかがだんだん分かってくる。この辺は、脳科学において、脳の認識パターンが分かってくるほど、自我とは何かが簡単には言えなくなって来るのと並行的だ。

「自己とは何か」ゴーギャン流に言えば「我々とは何者か」は、いちばん「哲学哲学した問い」である。そこに、脳科学とか免疫学とか、科学の方法論に乗った分野が取り付いて来たのを見るのは面白い。哲学者に取っては、まだまだ「からめ手」からの攻めに見えるだろうが、頭の中だけという徒手空拳の哲学なんて、あるところで見事に押し流されることになりそうに思える。

上にも書いたように本書の出版は 1993 年である。それから15年間の免疫学の進歩はもう一歩の高みにたどり着いているのだろうか、それとも、壁に当たっているのだろうか。こちらも知りたいところだ。
免疫から社会の仕組みを学ぶ科学的哲学書 ★★★★★
免疫というものによる「自己」と「非自己」の認識法からは、科学というよりもまさしく哲学を感じました。10年経ってまた読んでもまたすごいと思う本です。
お薦めできる良書。 ★★★★★
「異物に対する抗体反応」程度にしか「免疫」という仕組みをイメージしてなかったが
自己を自己として扱う行為そのものが、実は薄氷を踏むような危うい線引きの中で
辛うじて機能しているのだということにまづ驚かされる。
昨日までは非自己だったものが、今日は共生関係として「内」として扱われる。
自己とは非自己として扱われないもの、非自己とは自己として扱われないもの、という
トートロジーのような機制のなかで辛うじて立ち現れているとりあえずの境界が、自己
といことだ。自己言及性を免疫における自己の認識にみる点が興味深い。