もし、カエサルが現れなければローマは近いうちに衰退しただろう。しかしカエサルはたった1人で歴史に現れたのではない。カエサル以前にローマを救うべく奮闘した指導者が何人もいて、彼等ではローマを救うことが出来なかった結果として、カエサルは世に現れたのである。いわば、歴史が彼のような人物を要求したのだ。そのカエサルも、そういうローマを強く思う人間がいなかったら現れなかったかもしれない。
歴史とは単なる時間の積み重ねではない。各時代を生きた人々の生き様の積み重ねだ。そしてカエサルも人の子である以上、その積み重ねの果てに生まれた1人の人間なのだ。それを思えば、この巻は、ポエニ戦争からカエサルが現れるまでの単なるつなぎでないことがわかる。なぜって、ここにはカエサルが現れる理由のすべてが存在するのだから。歴史好きとしては、むしろこういう部分こそ読んでほしい。そしてカエサルを生んだ歴史の流れというものを感じ取ってほしい。
あともう1つ。現代の日本って、ちょうどこんな感じだと思うんだよね。将来この時代を振り返ったとき、《英雄誕生前夜だった》みたいな・・・。
しかし、本書内で疑義を呈したい事が一事だけあるのです。それはラテン語の発音についての巻末の三ページについてであります。著者はその中で、日本で行われているものは、ドイツ語発音なので誤りであり、イタリア語発音に準じたほうが正確であると言われる。私としては浅学の身ゆえ事の是非は問いかねますが、著者がイタリア語発音が正しいことへの理由としてあげたことには、疑問を感じざるを得ませんでした。特にイタリア語式ラテン語発音のほうが音読することによる快感を得ることが出来るという考えには納得できない。それはイタリア語以外を話す人にも共通することなのでしょうか?フランス人が、スペイン人が、イギリス人が、ドイツ人がイタリア語発音のほうが気持ちいいと感じているのでしょうか?私は、それは自分がイタリア語を第二母国語のごとく使いこなせるがゆえに感じることなのではないかと、うがった見方をしてしまうのです。もしそのような部分の考察がないのなら、「正しいから正しい」的な、およそ著者の論理からかけ離れた理論展開に堕してしまいます。インフラについてだけで一冊をものした著者です。ラテン語についてもどこかに一章ぐらい使って、腰をすえて論じてみてはいかがでしょうか。ラテン語もインフラに負けず劣らず後のヨーロッパ史に大きな影響を与えた、ローマ人の遺産のひとつです。そのくらいしても、ローマの通史として蛇足にはならないでしょう。
ちなみに私が、星を四つにとどめたのは先の不満があったからで、ほんの巻末三ページをあげつらっての結果に過ぎません。本文は今までの二冊に負けず劣らぬ内容となっていますので、手にされることに損はないことを言っておきたいと思います。
2巻のようなものを期待しているのなら、迷わずこの巻を飛ばし4巻を先に読みましょう。
ただ、このような時代があると知っているから、その後が面白くなると考えるなら、ちゃんと読んでおいたほうがいいです。