悩む祖父アウグストゥス
★★★★☆
文庫版第16巻は、アウグストゥスの晩年から死までを扱う。若くして権力闘争のさなかに身を置き、絶対権力を手中に収めながらも、
執政官を辞任し、独裁官などにもならず、もちろん「皇帝になる」等とは言わずに、こっそりとゆっくりとしかし着実に帝政を確立してきたアウグストゥス。
今や右腕アグリッパにもマエケナスにも死なれ、妻の連れ子のドゥルーススはとっくに亡くなっており、その兄のティベリウスはさっさと引退中。
養子に迎えてあった孫の男子ふたりは青年となり、アウグストゥスの後継者ということでさっそく経験を積み始めるが・・・。
親戚の男子を次々に養子にする様子から、何とかして他人ではなく自分の子孫を後継者にしたいというアウグストゥスの執念が強く感じられる。
共和政には広すぎる国土を持つようになったローマをうまく機能させるためのシステムづくりは、アウグストゥスの下完成に近づいていたが、
「蛮族」ゲルマン民族をすんなり覇権下におさめることはできず、娘も孫娘も男関係ゆえに流罪にせざるを得ず、
養子に迎えた男子は手に負えずに流罪、とアウグストゥスは身内内の問題にも苦しむことになる。
アウグストゥス晩年の悲哀と苦悩、執念の想いが伝わってくる「pax Romana」最終巻。巻末には年表、文献表付き。
選択することの困難さ
★★★★☆
アウグストゥスがローマに平和を齎す迄を描いた下巻。
紀元前5年〜紀元後14年までの出来事。
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下巻は特筆すべきことはそこまで起きない。
娘のスキャンダルやゲルマン戦役に失敗。
どちらかというと、アウグストゥスにとっては
マイナス要因が多い晩年。
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『アウグストゥスが巧妙に、嘘さえもつきながら
確立に努めた帝政とは、効率よく機能する
世界国家の実現であった』
『六百人(元老院議員)に不評でも、
六千万人(ローマ市民)には好評であった。』
というアウグストゥスによるパクス・ロマーナ。
『われわれ人間は、常に選択を迫られる。
なぜなら、絶対の善も悪も存在せず、
人間のやれるのは、その中間で
バランスをとりつづける
ことでしかないのだから。
カエサルも選択したが、
アウグストゥスも選択したのだ。』
という塩野さんの文章が印象的。
『選択』というのは。
本当に。
常に難しい。
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戦時の英雄と、戦後の英雄では、
努力の質も異なる。
戦後の英雄であった当事者、
アウグストゥスの戦場 = 政治の場は、
カエサルに比べれば地味な場ではあった
のだろうけれど、
決して楽な道ではなかったのだろうなと。
アウグストゥスの最期を読んで思いました。
拡大するローマ国家を導く名指導者像
★★★★★
アウグストゥスの晩年を描く下巻。
冷静かつ巧妙に帝政への手を打ち続けていた青・壮年期と比較して、失政(というほどの失敗でもないが若いころのアウグストゥスの周到さからみれば粗が目立つ)や一族の不祥事が続き、そのことが却ってアウグストゥスの人間らしさを気づかせてくれているような印象を受けました。人間誰しも歳をとると弱気になり、身内を可愛く思うようになるのでしょうが、身内の不祥事にはことのほか心を痛めたのではないでしょうか。
「アウグストゥスが…確立に努めた帝政とは、効率よく機能する世界国家の実現であった」と塩野氏は述べていますが、カエサルにしろアウグストゥスにしろ、私欲というものを全く感じさせず、適確な国家観とそれを実現するグランドデザインをもっていったという2点において、極めて有能な政治家であったと思います。
2000年経った現代でも学ぶことの多い時代であり、それを分かりやすく読みやすく紹介する塩野氏の功績は評価されてしかるべきと思います。
アウグストゥスという「同僚」
★★★★★
アウグストゥスが死を迎え ティベリウスへの帝位委譲が本巻の内容だ。
塩野は カエサルには感動し その後継者であるアウグストゥスには感心している。その癖カエサルの死の場面は 案外淡々と描いたのに対し アウグストゥスの最後は 案外とウェットな雰囲気を読んだ。普通なら カエサルの死に際して大泣きし アウグストゥスに対してはクールで居ても良いとおもうのだが。
こういうのを女心の妙と言うのかもしれない。塩野さんという稀代の歴史小説家は ご自身が女性であることを骨の髄からご理解し かつ 最大限にそれを活かしていらっしゃる方だ というのが このところの5年間の「塩野さんとのローマの旅」で感じる点だ。もちろん これは塩野の才に感嘆しているということだ。
アウグストゥスは カエサルが作った ローマ帝国の「グランドデザイン」を忠実に実現したというのが塩野の基本線である。従い 例えば ライン河ではなくエルベ河を防衛線としようという カエサルのデザイン以外の アウグストゥスの「独創」に関しては 冷ややかに書いているし その「失敗」に関しても めずらしく アウグストゥスを批判的に書いている。
そんな部分に 塩野のアウグストゥスへの思いも感じる。
おそらく塩野はアウグストゥスに 深く同情していたのだと思う。「ローマ人の物語」の 少なくとも前半部分は カエサルをどう書くかに尽きたのだと思う。天才カエサルを仰ぎ見て その行状を追っかけるという点で 塩野とアウグストゥスとは同じ地点に立っていると 塩野自身が思っているのではないか。そんな「同僚意識」も 今回感じたところだ。
アウグストゥスにはカエサルの構想が理解できていなかったのではないか?
★★★★★
シェークスピアの傑作・「シーザー」と、それを題材に何度も映画化したハリウッドとによって、カエサルと言えば、「エジプトの女王・クレオパトラと浮き名を流し、共和制ローマの乗っ取りを計ろうとして共和制支持者に暗殺された人物・・・」というイメージが定着しているようだが、では、カエサルは果たして王になろうとしていたのだろうか?
私見を述べさせて頂くなら、彼が目指そうとしたのは、「王」でも「皇帝」ではなく、むしろ、現在の「大統領」的なものではなかったかと。
では、「大統領」と「皇帝」、そのもっとも大きな違いは何かといえば、それは、言うまでもなく世襲の有無であり、そう考えたならカエサルの死後、遺書により後継者に任じられたのはクレオパトラとの間に出来た一子・カエサリアンではなく、遠縁に当たるオクタビアヌスだったわけで・・・。
もっとも、古代ローマの「皇帝」とは、プリンチェプス・・・、(塩野七生女史に言わせると、「第一人者」という訳が適当だとのことだが、イタリア語やラテン語はおろか、標準語さえも満足にしゃべれない私が敢えて言わせて頂くとしたなら、むしろ、「筆頭市民」と言う訳が適当ではなかったかと。)つまり、元老院により特権を付与されたローマ市民という扱いであり、後世の絶対権力者「皇帝」よりは、やはり、今の大統領に性格は近いように思える。
「大統領」というものを理解できたのは、同時代人ではカエサルだけだったことに彼の悲劇があったのではないか?
(彼の後継者であり、彼の思想を一番的確に理解していたと思われるオクタビアヌスでも、完全には理解し切れてなかった・・・、伝える間がなかったのではないかと。)
そして、後の世まで、それを誰も理解しきれなかったことが、後のローマ帝国崩壊の最大の原因だったと思う。