よみがえる「寺山修司」
★★★★★
私たちがまず心を奪われるものは、
この書籍のタイトルである
「月蝕書簡」
というネーミングだと思われます。
実に寺山修司らしくて、
私たちは「寺山修司の世界」に吸い込まれていきます。
昔々の寺山修司が綴った歌を読んでいると、
その美しさ、その色鮮やかさ、その孤独さ、その残酷さ等に、
私たちは彼の偉大な才能と仕事を、ひしひしと感じるのです。
寺山修司の歌をはじめとする作品たちは、
私たちの心に、グサリグサリと突き刺さるのだけれども、
なぜだかそれを不快だとは思わないのです。
それは寺山修司が私たちに残した「質問」でもあるのでした。
私たちは心を覗かれた気分になるのです。
超越する劇的空間。
彩られた演劇たち。
残された戯曲たち。
そして、蘇る短歌たち。
「月蝕書簡」はいつもいつでも、私たちを
寺山修司の世界に連れて行きます。
そして、連れて行かれる私たち。
私たちが「月蝕書簡」を読むとき、
そこには、真摯に自分と向き合う「私」が存在するのです・・・
「月蝕書簡」もまた、21世紀を生きる私たちには、
必読の書なのです。
最新最闇黒の文字表記美
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なんだかひさしぶり♪!
どーだろ。
40年ぶり?
<文字表記美>の痙攣♪!
ヌーヴォロマン以後に小説なし。
Surrealisme以後に詩歌なし。
というときに。
「わが町をふたりの唖が引越してゆく夜なりニュートンの法則」
「履歴書に蝶という字を入れたくてまた嘘を書く失業の叔父」
は。
<Marc Bolan×Syd Barrett>。
つまり。
<DADA×Surrealisme>。
(私無謀にも、ずっと昔から寺山修司は。)
(短歌と写真だけだと言っていた。)
(いまもその評価は変わらない。)
(映画も芝居も通俗すぎて退屈。)
(寺山は短歌と写真さ。)
その思いをさらに強くした。
だいたい本人が死んだ後の<未発表〓〓〓>なんぞにはろくなモノはない。
つまりゆえあってその本人が発表をしなかったものだから未発表なので、本人も認めるカスなのだから当然なのかもしれん。
(研究資料として重要っていうのもなんだかな〜だ。)
しかしこれはそれらと明らかに異なる。
寺山の天才の40歳の大脳新皮質前頭葉の大発火がむき出しのまま生々しいのだ。
したがって「寺山修司未発表歌集」という言い方に左右されず、新歌人の処女歌集として読める。
というか。
私は真実、表紙とタイトルに惹かれ手に取り目に入った1首でドッカンと来てあわててこの歌人は何者と確認したぐらいなのだ。
シュールさと物語性+死生観
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寺山修司は十代で俳句を、その後短歌をつくったが21歳ぐらいで作歌をやめた。
その後は戯曲や散文の世界にマルチな才能を発揮するわけだが、
この歌集は、寺山の晩年10年間ほどにつくったものだ。
未発表歌集である。
いったん短歌を捨てた寺山の遺稿集ともいえるだろう。
それぞれの歌に、寺山らしいシュールさと物語性があるが、
どこか「角の取れた」感じがするのは私だけだろうか。
一本の釘を書物に打ちこみし三十一音黙示録
満月に墓石はこぶ男来て肩の肉より消えてゆくなり
ある程度、己の死を覚悟していたと言われる彼の、彼なりの素直な表現だ。
十代の頃の短歌と比べて云々するのはこちらの勝手というものだろうが、
シュールな中にある種の「わかりやすさ」が加味されている気もする。
父ひとり消せる分だけすりへりし消しゴムを持つ詩人の旅路
……まるで辞世の歌のようである。
若い頃の歌とともに味わって読み返したい。
寺山修司未発表歌集の魅力
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地平線描きわすれたる絵画にて鳥はどこまで墜ちゆかんかな
父ひとり消せる分だけすりへりし消しゴムを持つ詩人の旅路
おとうとよ月蝕すすみいる夜は左手で書けわが家の歴史
一夜にて老いし少女をてのひらで書物にかくす昼の月蝕
眼帯の中に一羽の蝶かくし受刑のきみを見送りにゆく
まなざしのおちゆく方を地平とし大鳥は翔つ少年の日の
暗室に閉じ込められしままついに現像されることのなき蝶
王国の猫が抜け出すたそがれや書かざれしかば生まれざるもの
父恋し月光の町過ぐるときものみな影となるオートバイ
地の果てに燃ゆる竈をたずねつつ父ともなれぬわが冬の旅
一本の釘を書物に打ちこみし三十一音黙示録
寺山修司は佐佐木幸綱との対談で「ぼくは実際、感心しているのだよ。人麻呂や万葉集がいまのあなたにどうしておもしろいかってね。あれだったら、まだ探偵小説のほうがずっとましだ」と学者の血筋をなじっている。寺山の父は一兵卒、南洋で戦病死している。母一人子一人、兄弟も子もなく、四十七歳で逝った。没後25年、「新たな寺山修司の発見!」と銘打っての本書の出版である。「文学史は読み換えられるだろう」とオビで解説しているのは、大げさだろうが、注目すべき歌の数は多い。肉親に恵まれず、友人幸綱とは対極にある鬼才である。生の現実から大きく飛翔して「シュールな色合に染める手でわ」よさが寺山短歌の大きな魅力である。本書、1ページ1首ずつ、189首をじっくり鑑賞できる仕組みになっている。
演劇としての短歌
★★★★☆
寺山のことばはすべて「演劇」につうじる。「演劇」は「現在」でありながら、つねに「過去」を役者の肉体のなかにもっている。そして、その「過去」が「現在」を突き破り「未来」になろうとするとき、そこからドラマが生まれる。そういう構造が短歌にも存在する。「家族」(父、母、弟など)を歌った歌にそれが濃厚に出ている。
http://blog.goo.ne.jp/shokeimoji2005(2008年3月22日の日記)を参照してください。