現代の始まり。苦悩し、漂泊する都市生活者。
★★★★☆
近現代文学の名作『マルテの手記』
文庫では、新潮、岩波、講談社と数種ある。
定評あるのは新潮の大山定一訳だが、
最も出版が新しいのは、意外にも岩波で、
この岩波=望月市恵訳は、
モダンで、ソリッドで、推進力と迫力がある。
大山訳は、原作の雰囲気(都市の中を漂う詩人の心象)を叙情的に表しているが
望月訳は、そういった要素を徹底的にそぎ落としながら
作品の真髄に肉薄する。
冒頭部分からして違いは顕著。
「こうして人々は生きるためにこの都市に集まって来るのだが、
僕にはそれがここで死ぬためのように考えられる。
僕は外出してきた。そしていくつもの病院を見た」(望月訳)
「人々は生きるためにこの都会へ集まってくるらしい。
しかし、僕はむしろ、ここではみんなが死んでゆくとしか思えないのだ。
僕はいま外を歩いてきた。
僕の目についたのは不思議に病院ばかりだった」(大山訳)
78ページに、マルテがいつも前を通る石膏職人の家の壁に掛かっている
2つのデスマスクについての文章がある。
ひとつは溺死した女性の美しい微笑顔。
もうひとつは意志の強そうな男性の顔。
大山訳は、それを「ベートーヴェンよ、世界の完成者よ」と具体的に確定するが、
望月訳では原作通りに、ただ「世界を完成する者」とする。
このくだりは、リルケがマルテの目を通して書いたベートーヴェンをめぐる
詩的一節になっている。
「お前の音楽。
お前の音楽は世界をとりまく音楽であって、
人間の世界にとどまるべき音楽ではなかった。
お前の音楽のためにエジプトの砂漠へ巨大なピアノをすえ、
天使がお前を王や舞妓や隠者の眠る砂漠の山脈を越えて、
誰もいない楽器の前へ連れていくべきであった・・」などと続く。
どちらの訳で読むかによって、作品の印象はまったく異なるだろう。
ある部分では大山訳は素敵で美しく、ある部分では望月訳は明晰で力強い。
気になった箇所を読み比べる楽しみもある。
巻末に、16ページ分の訳者による解説が掲載されている。
レトリックの宝山
★★★★☆
これは詩人のノートであり、詩人や詩の愛好者なら必読の文献である。日本でいうなら明治・大正に存命、活躍した詩人であるが、現代でもここに表現されているレトリックは参考になるはずだ。
都会に見かける通行人の奇行、よそ者にはまるで迷路に紛れ込んだかのような裏小路体験、精一杯身なりを整えて来たはずなのにそれでも見下したような態度をとる医者、これら書き出しの描写は花の都パリに限らず、東京へ上京したばかりの地方人にも思い当たることだろう。私もその点には共有できるものがある。
孤独な時空を経て、アパートにこもって書き綴った統合失調症気味の幻覚的な独白の山。しかしすばらしい比喩の連続には看過できない宝の山ともいえるのだ。
最初の100ページも読めば飽きてくる。あとは本書を常時携行して、数ページを時折り捲ってはリルケの世界を垣間見、堪能する、こんな感じで付き合うのがよろしいのではないだろうか。
本作品は一見すると自叙伝のような趣もあるが、リルケはプラハ生まれのドイツ系の人間であり、登場する一族はデンマークの伯爵家ということになっていて、フィクションである。マルテの手記
不安げな、あまりにも不安げな・・・。
★★★★★
パリの喧騒にもまれたマルテは不安に取りつかれていた幼少時代を思い出す・・・。
本書は読みにくい作品である。それは話に脈絡がないということもあるが、主人公のマルテの内面があまりにも赤裸々に描かれているので、読者が物語にのめり込むことを拒絶してしまうためではないかと思う。そのことを裏付けているのかリルケは「私とマルテを同一視しないでほしい」と周囲に訴えていたそうである。
読後の感想として読者は“不安を口に出さなければ耐えられない。しかし内面に入り込んでくる者を拒まざるをえない”そんなリルケの屈折した(それでいて繊細な)心情を感じるのではないか。