シテール島への船出
★★★☆☆
アンゲロプロスが新たに<国境>をテーマにして撮った3部作の1作目。ギリシャ山間部や旧港を叙情的にとらえた映像は絵画的で確かに美しく、それだけの映画ではないことも感覚的にはなんとなくわかるのだが、(私自身あまりアンゲロプロスを好きじゃないこともあり)その良さを説明しろといわれると非常に困ってしまう漠とした作品だ。
ソ連に亡命していたスピロが故郷ギリシャに32年ぶりに戻ったものの、村民はスキー場開発業者に土地を売り渡す約束をしていて、それにすねたスピロはある騒動を起こす。国籍をすでに失っていたスピロは国外退去を命じられ、長年別居状態だった妻とともにイカダで船出するのだが・・・・・・
スピロ老人のオーディションや演出に悩む映画監督アレクサンドロスが、映画内映画にそのままスピロの息子役で出てきたりしているので、本作の二重構造はきわめてわかりにくい。わざわざ曇天や雨になってからカメラを回しはじめたというアンゲロプロスの狙いは、さまざまな“境界線”をあいまいにぼかすことにあったのだろうか。
虚構と現実、国境、イデオロギー・・・・・・境界があいまいになった世界に生きる人々の心もまたどこか虚ろである。村民からは厄介者扱いされ、ギリシャにとどまることも出国することもままならなくなったスピロは自らを“しなびたリンゴ”と蔑み、妹役ヴーラは「もう亡霊を追うことはやめにしたいの」や「人を信じられなくなった自分にぞっとする」等のネガティブ発言を繰り返す。老妻カテリナにしても、スピロと行動を共にすることしかもはや考えられなくなっているようだ。
本作品が時に退屈という不名誉なレッテルをはられる大きな要因は、技術的な問題よりもむしろ、(意識的に)人間の内面描写が抜き落とされているからのように思われる。劇中で語られる台詞も、あくまでも映画内映画の登場人物スピロやアレクサンドロスのト書き含みであり、名もなきラベンダー売やアンゲロプロス自身の肉声ではけっしてないのである。
共産主義ユートピア実現の夢破れた後の混沌としたボーダーレス社会は、アンゲロプロスの目には人間不在の神話的世界のごとくに見えたのだろうか。唯一人の営みを感じさせるカラインドルーのギリシャ民謡に合わせて、リズム良くステップを刻めないアレクサンドロス(アンゲロプロス)は、やがて夜の闇にのみ込まれてしまうのであった。
幻のフィルム
★★★★★
ユリシーズの瞳。それは幻のフィルムを求めての旅。そしてフィルムは希求としての始まりの世界、つまりはこの世界の再誕を錯覚させる虚構としての20世紀の開始であるのかもしれない。かつて故郷を逃れたひとりの旅人は長いときを隔てて帰還する。変り果てた土地。開始される遡行と探索。凍てつくバルカン半島は悲痛である。ひとも建物も河もすべてが閉ざされている。あらゆる外界が静かな拒絶をもって、あるいは無視を装うかのように他者の眼差しでそこに佇む。歴史の夢が、記憶が、そして祈りがゆるやかに交錯する。民族、宗教、イデオロギー。ひとは多くの衣を纏っては次々と脱ぎ捨てていく。希望はいまだ宙吊りのまま冬景色のなかで凍結している。そのフィルムに果たして写っていたのは、原初の光であるのか、わたしたちは未だその答えを見出せないまま映画を観終わらねばならないのである。