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超芸術トマソン (ちくま文庫)

価格: ¥1,188
カテゴリ: 文庫
ブランド: 筑摩書房
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トマソン入門編 ★★★★★
20年くらい前に読んだのですが、今読んでも面白いと思います。

存在自体に機能がない、意味のない、かつ作り手がそれを意識して製作したものではない。
それをコンセプチュアル・アートとして認識したのが、「トマソン」です。
つまり、作り手のいない(いてもそれを作品として製作したのではない)芸術作品であり、これを「超芸術」とネーミングしています。

「存在自体に機能がない」という点において、「トマソン」と同義である「零円札」を造った赤瀬川原平(尾辻克彦)が放つ、「トマソン入門編」。
「東京路上探検紀」や「路上観察学入門」と併せてお読みください。
無用の長物? ★★★★★
 芸術家・作家・画家など多彩な肩書を持つ著者による、街にあふれる芸術を超えた「超芸術」を楽しく紹介する内容。とはいうものの、ものは言いようで、見方を変えれば単なる「無用の長物」紹介。ただ、その「無用さ」がなかなか見事で、赤瀬川氏率いる「超芸術トマソン観測センター」の面々に見出されると、たちまち「超芸術」と化してしまう。

 つまり、ここでいう超芸術とは実体として存在するのではなく、見る人に発見されることによって生じるという、縁起的なもの。そのような「超芸術」たちが、かなり興奮気味に紹介されているため、読む側もある程度テンションを上げておかないと、白けてしまうので要注意!!個人的には、こういう発想は好きなのだが・・・

 さて、ここで「超芸術」に関する著者の言葉を引用。

 芸術とは芸術家が芸術だと思って作るものですが、この超芸術というものは、超芸術家が超芸術だとも何とも知らずに無意識に作るものであります。だから超芸術にはアシスタントはいても作者はいない。ただそこに超芸術を発見する者だけがいるのです。(抜粋)

 この言葉に「超芸術」の本質が隠されているように思う。さらに、冷静に以下の言葉で定義する。

 超芸術=不動産に付着していて美しく保存されている無用の長物(抜粋)

 ポイントは、単なる無用の長物ではなく、無用でありながらしっかりと管理されているように見えること。用がないはずなのに、なぜそんなにきっちりと?というギャップが良いのだろう。

 ところで、なぜ「トマソン」なのか?実はこれ、1982年にジャイアンツの四番バッターの座にいたトマソン選手が由来とのこと。何とも不名誉なことだが、最後にその由来を引用する。

 扇風機というような失礼なアダ名を付けられながら、しかしよく考えたらその通りです。打席に立ってビュンビュンと空振りをつづけながら、いつまでもいつまでも三振を積み重ねている。そこにはちゃんとしたボディがありながら、世の中の役に立つ機能というものがない。それをジャイアンツではちゃんと金をかけてテイネイに保存している。素晴らしいことです。いや皮肉ではない。真面目な話、これはもう生きた超芸術というほかに解釈のしようがないではありませんか。(抜粋)

 誠に失礼ながら、この名前の由来を読んで、「超芸術」の本質が直観できてしまった・・・
ヒルズの歴史が垣間見れます ★★★★☆
アークヒルズの建設用地買収時期の話や、そのころの写真も掲載され
東京都心在住の人は必読です。トマソン探しだけでなく、様々なエピソードから
住宅や地域は金銭的な価値ではかられるだけでなく、「人が存在する所」だという
当たり前のことを再認識せてくれました。読んでよかったです。
人の生きるところにトマソンあり、でしょうか。
面白さでも読む価値あります。
一度味わったらやめられない、それが赤瀬川原平の世界 ★★★★★
数年前には「老人力」という本が大ベストセラーになった赤瀬川原平だが、その原点はこの「トマソン」を中心とした路上観察の世界だ。
かつてせっかく日本に呼ばれてきたものの、実力を十分に発揮出来なかった巨人の「トマソン」選手の名から命名したのは言い得て妙といったところか…。しかし、この彼(赤瀬川原平)の独特の世界というのは何と言ってよいのか、一度味わったらやめられないものがある。かく言う愚生も彼の世界観にハマッてからは、名古屋にまで「赤瀬川原平展」を見に行ってしまった。
多分同じような知的好奇心をお持ちの方はこのようにハマッてしまうだろう。
1.20数年を経てわかること 2.文庫判と単行本の違い ★★★★★
この本の元になった赤瀬川原平の連載が白夜書房のウィークエンドスーパー、写真時代
で発表されてから24年ほどになるのだろうか。一時のブームにすぎないと思われた本書がこ
れほどのロングセラーになって刷数を重ねていると誰に想像できただろう。

 トマソン観測は路上観察に発展解消したようなアナウンスが出版元から成されている。
 ほんとうにそうだろうか。

 無名な人達が発見のおもしろさに突き動かされて、ある者は煙突に登りある者は休暇を
とって街を歩き回った。美しいだけで全く役に立たないものの為に。
そんな有り様が赤瀬川の筆を動かし、独特な(異様と言ってもいい)ダイナミズムがあふ
れた本になっている。
内需拡大→地上げバブル にさらされた東京の町のナマな記録も本書の切り離せないバッ
クグラウンドとして色を放っている。

 トマソンとは決して有名な先生達が頭でひねくり出した観念的な思いつき、平凡な物の
しゃれた見立てではなくて実在するものだったと20数年は証明しているのではないだろうか。
また美術・芸術とはなんなのかを美術を学び、志す人には問い直してくる青春の書でもあろう。
(さしづめ美術界のサリンジャー?)

なお単行本、白夜書房版は連載途中での出版のため文庫版
に入っている連載末期の内容は入っていない。写真も若干違いがある。
写真の印刷製版は文庫版がむしろ見やすい。
カバーデザインはどちらも平野甲賀。
本書の前に雑誌「ウィークエンドスーパー」などで連載していた「自宅でできるルポルタージュ」
をまとめたのが単行本「純文学の素」であってその連載途中でいきなり「というわけでトマソンである」
と唐突に始まったと記憶しています。

*「考現学」は今和次郎の発案によるもの(1920年代)。トマソン連載開始当時赤瀬川は神田の
「美学校」で「考現学教室」という教場を担当していた。考現学の手法がトマソンの“下地”
“前史”と考えることはできる。