大激震の書物
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歴史の真実をあらわにした大激震の書物である。これまで地上に悠然とそびえていた諸々の建造物が無惨に崩壊して、大地の真実の姿がむきだしになった観である。
大阪の河内地域の人であるならば、古代の河内は何処を掘ってもおびただしい朝鮮といくらかの大陸中国の文物が今でも現れることを知っている。そしてその最大の誇りは「応神天皇陵」である。応神は軍神であり、それは「誉田」と呼ばれており、全国に数えきれなく所在している八幡神宮の始祖者である。
だが、「応神天皇」ははたして何者であったのかは知らない。そして「応神」には「誉田」の別名があり、それは「ホンダ」と読むのが正しいのか、それとも「コンダ」が正しいのか、随分と当惑してしまう。現代では前者が多く用いられるが、河内の人たちは後者がどうも正しいようだと先祖伝来からの言い伝えで知っている。
しかし「誉田」を「ホンダ」にせよ「コンダ」にせよ、その読み方はまるで不思議で不可解である。日本語ではありえない読み方であるからである。これは関西地方にかなりある名字の「日下」を「クサカ」と読むことも同様である。
歴史家はしばしば時の権力と権勢に奉仕する。これは現代でも例外ではない。古代中国漢時代の『史記』の著者「司馬遷」が現代でも世界的に人々に尊敬されるのは、自らの生命を盾にしても歴史の真実と事実を語ろうとしたことにある。裏を返せば、「司馬遷」は歴史家にあって極めて稀有な世の真実と事実を語ろうとした人物であったということである。
また、私自身、中学生時代からの大きな謎があった。それは「蘇我稲目ー馬子ー蝦夷ー入鹿」の極めて軽蔑しきった名前に関してである。そもそも親が我が息子にこのような侮蔑的な名前をつけることがあるだろうか。後に大人となり、「平家物語」や「吾妻鏡」そして法然や親鸞の文献を詳細に読むようになって、この不可解な謎は解けた。
古代・中古・中世では敵や滅ぼしたい相手には、その名前を侮蔑そのものに一方的に変えて、一座でその蔑称を読んでさげすんで笑い者にしていたと知った。いくら敵や滅ぼしたい相手にしても、これを行う方の者たちには如何にも下品で卑しい所行であり、そこには事や者の真実と事実は何処吹く風である。
「蘇我稲目ー馬子ー蝦夷ー入鹿」の名前のことは『日本書紀』編纂者の言葉遊びにしても、その蔑称に異様性を覚えない古今の歴史家にもまるで信をおけない。ましてやその蔑称を名づけた者たちの言い分をそのまま真に受けて記した歴史書など大いなる疑問を抱か
ざるをえない。
本書は自分の考えの如何にかかわらず、冷静に読むべき歴史研究書である。しかも実に論理明晰かつ実証的で納得させられる。それも声高な主張ではなく、国際的視野と歴史的遺物の厳密な考証から落ち着いて成っている。現代社会では、多くの国々で国際協力と歴史的遺物の検証方法の進展もあって、過去の歴史がダイナミックに見直されている。これは日本の歴史学にあっても例外ではないことである。
実際、古代の歴史的遺跡物が発掘されて公正に検証されていない日本の歴史学自体が国際社会にあっては異様であり異常である。日本の歴史関係者も当たり前のノーマルな歴史学に立ってもらいたい。いずれの国も社会も人々もそれらの歴史は互いに人類同胞のそれらであるからである。
ノーベル賞級の発見!!!
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「『日本書記』は、百済から渡来して倭国で大王になった“ある人物”の正体を隠すために編纂された」という本の帯に惹かれて、本書を購入してみた。
ある人物とは、百済蓋鹵王(在位455〜475)の弟で、その名を“昆支(余昆)”という日本最大の古墳・誉田古墳(伝応神陵)の被葬者百済の王子であるという、石渡信一郎氏の説に衝撃を受けた。
しかも、その人物は倭の五王のうちの“武”と同じ人物であり、倭王武と呼ばれ、伝説のヤマトタケルのモデルであることも知った。
また、昆支(倭王武)は現在、国宝として上野の国立博物館に常設されている隅田八幡鏡銘文「癸未年八月日十大王年、・・・」の「日十大王」のことで、「癸未年」は、503年であることも知った。
この癸未年鏡は、503年、「日十大王」の時、斯麻=武寧王(在位501〜523)が、叔父の男弟王である継体天皇(在位507〜531)に贈った鏡であることも分かった。
石渡信一郎氏は、隅田八幡鏡銘文から、昆支=倭王武=「日十大王」は、男弟王=継体天皇の兄であり、斯麻=武寧王は昆支の子であることを解明した。
そして、男弟王である継体天皇は、伝仁徳陵(大山古墳)に埋葬されたというのが石渡説の真骨頂である。
のち、皇位継承は昆支と継体、それぞれの子孫たちによって争われ、この激しい争いは、645年の継体系の中大兄皇子と加羅系祭祀氏族の藤原鎌足による昆支系蘇我王朝の打倒(クーデター)によって終結した。
律令国家の草創期、この継体系王朝のもとで万世一系皇国の物語を創出すべき至上命令を受けた『日本書記』編纂者たちは、百済系ヤマト王朝の始祖王 昆支=応神天皇が百済の出自であることや、応神と継体天皇が兄弟であり、二人の兄弟の末裔が血で血を洗う争いをした事など、絶対のタブーであったのだ。
日本古代史の全貌が手に取るように分かるので、ぜひ、本書の通読をお勧めしたい。
画期的古代史解説
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仁徳から武烈までの10代の天皇が実は存在しなかったなどの、画期的な石渡氏の古代史分析を解説している。筆者は従前から同様の書を著しているようであるが、特に本書は古代史解説としては文章が平易であり、各説を比較した年表等を駆使することで、分かりやすい解説に努めた力作となっているため、古代史に多少でも関心のある方には一読を勧めたい著書である。
真相を隠蔽するアカデミズム
★★★★☆
本書は、論点が絞られているのと、表現が分かりやすいのとで大変読みやすい。日本という国が持つ曖昧さは、日本書紀、古事記という国の成り立ちを記した文書に重大な虚偽があること、それにもかかわらず国内のアカデミズムが真相を隠蔽し、相変わらず「皇国史観」を否定できずにいることに基因しているのだということが、本書を読むとよく分かる。
日本書紀の「暗号」
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この著者の作は以前もレビューしたが、石渡信一郎史学への招待としてはすこし読みづらいところがあった前作とくらべると、今回はケレンミとメリハリのある「渡来人」王朝説の構成となっていて、理解を助けてくれます。地図や年表比較で従来の説と新説の差を強調説明しているのがわかりやすい。
日本書紀に隠されたまるで「暗号」のような設定を、干支と一蔀からあぶりだしていくところが実に読ませますし、考えさせる。
おそらく「一蔀」といっても、そうとうの古代史好きでもないと普通聞いたこともないだろう。それまで日本書紀における干支や一蔀のメカニズムを知らなかった人間にはだいぶ衝撃や驚愕を与える内容になっています。
印象深いのは、普通だったら「古くて強い万世一系の日本人の皇統」を強調するために、渡来人隠しをし、日本書紀はつくられたとなるものだが、そうではなくて、むしろ「故郷を喪失した悲哀」を塗りこめるがために日本書紀が数値的に構成されていたとするところ。干支等の説明があるので、異様に説得力があります。この「異様さ」がこの学説流派の魅力ということだろう。
「日本人」の正体というタイトルはまぎらわしいかぎりだが、日本を形成した「王権」の正体に迫る、といったのが内容です。たくさんの異説や魅惑的な考え方が他にも出てきていて、時系列で日本古代史を読みかえてやろうという意欲や野望が感じられました。
反主流派のエネルギーを、これでもかと見せつけられて、おなかいっぱいになります。