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山の音 (新潮文庫)

価格: ¥680
カテゴリ: 文庫
ブランド: 新潮社
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恐ろしい筆の力 ★★★★★
2年前のことです。ある日曜日の朝、私は妻から「朝起きてから変なことばっかり言って、どうしたの?」と言われてびっくりしました。おかしな発言を繰り返していたという自覚が全くなかったからです。しかし、前日からの行動を思い出すと、それが「山の音」のせいであることがわかりました。私は、前夜遅くまで「山の音」を熟読していました。そして「山の音」の信吾(62歳)が完全に私の頭の中に乗り移っていたのです。私のその朝の発言は、信吾だったら言いそうな発言ばかりでした。川端先生のような達人になると、その筆の力で読者の脳を完全に占拠することができるのだと、改めて思いました。
川端は異常であるから文学である ★★★★★
何をいまさらという感じではあるが、少し前、吉行淳之介のエッセーを読んでいて、吉行がこの作品にかなりこだわっている様子が伺えたので、ちょっと読んでみるかと思うきっかけとなった。
川端作品は幾つか読んだが、なぜか代表作であるこの小説だけは目を通していない。
(成瀬巳喜男の映画は観たことがあるので筋はわかっている)

筋書きは長男修一の嫁菊子に60を過ぎた主人公信吾が、同情とも恋情ともあいまいな複雑な思いを持って接する心理劇である。
長男修一が愛人を作りそのことで同情しているという設定なのだが、それ以上に老人特有の性欲描写がリアルである。
筆は抑えているだけに、かえってエロチックに感じる文章が多い。
以下短く抜粋。

「・・・女が出来てから、修一と菊子との夫婦生活は急に進んで来たらしいのである。菊子の体つきが変わった。
さざえの壷焼きの夜、信吾が目をさますと、前にはない菊子の声が聞こえた。・・・」

これだけのそっけない短い文章だが、若夫婦の夜の営みに耳を澄ます老人って。。。

川端という人が「少女趣味」の人であったことは、すでに様々な評伝で伝えられるとおりである。
この作品もそういった意味ではかなりグロテスクな老人の性欲を描き出したもので、文学というものの本質に「業」というものが常にひかえていることを改めて感じさせる。
「伊豆の踊り子」という代表作のために、あまり文学に興味のない一般の人々には、清廉なノーベル賞作家のイメージが固定しているが、あの作品だって本当はかなりエロチックだった。

散文詩のような文体が、そういったどろどろとした内面の暗さとアンビバレントなある独特の世界をかもし出す。それが川端の魅力である。
それぞれの家にはそれぞれの事情がある ★★★☆☆
山の音を聞いて、死を意識した老齢の主人公。その主人公の妻、息子、息子の嫁、出戻りの娘とその子供達。そんな家の中で、それぞれがそれぞれの事情を抱えながら生きている。そして物語の根底を流れているのは、紛れも無く「死」のイメージである。その死のイメージと相対して表されているのが、異性との関わりを軸とした生のイメージである。そのイメージの両方が物語りの中を二重螺旋の構造で流れている。そりゃそうです。生と死はコインの表裏、DNAの二重螺旋の相方なのだから。そんな中で、鎌倉の一家の日常が流れている。そしてその日常は物語が終わった後も続いていくのである。静かな中に各人のやるせなさが見て取れる。悲しさなのであろう。でもこの悲しさというのはどの「家」にもあるのであろう。「家」の持つ性なのである。そんな感想を持たせてくれた物語。
作品の随所にエロスの秘宝が配置されている ★★★★☆
長年の憧れの作品を手にして数ページめくってやや後悔の念が湧いてきた。話が進まないのだ。アクションがまったくない。これを映画にすれば、ホームドラマだ。そして、成瀬巳喜男監督の映画を思い出した。原節子が嫁の菊子を演じているが、あのまんまである。
けれどさらに読み進むと、やはり舐めてはいけなかった。相当スゴイ文豪の作品である。ホームドラマの原作程度で終わるものではなかった。
もの覚えの悪くなった老人尾形信吾を取り巻く家庭が舞台だが、家族に対して次第に露出するエロチックな視線描写が並みの文学を超越している。
夫・信吾の息子が浮気をしていて相手にされない嫁菊子は、はっきりいって視線や気持ちで陵辱されているといっていい。
また、子連れで出戻りの娘房子の身体への視線も相当にエロチックだ。
日常生活の描写のところどころに赤や青色の宝石が配置されているように、婉曲的で象徴的なエロス的表現が挿入されており、その秘宝に遭遇するたびに私は胸を高鳴らせてしまった。
「家族はエロスそのものだ」と某評論家がいっていたような気がするが、まさに本書はその文学的結晶といえる。
小津映画の様な美しい情景 ★★★★★
本書は、昭和20年代中頃の鎌倉の中流家庭の生活が美しい文章で描かれており、読みながら小津安二郎の映画の様な情景が浮んでくる。還暦を越えた主人公、信吾は若くて美しい息子の嫁(菊子)に対して、ほのかな恋愛感情を抱くのだが、その決して発展する事のない微妙な心のひだが見事に描かれている。そして、今とそれ程変わらない一見平和な家庭の様に見えるのだが、所々で戦争の傷跡が垣間見える。信吾の息子、修一は美人の妻がありながら、戦争未亡人の愛人がいて、いつも帰宅が遅い。そんな息子に信吾はいまひとつ厳しくなれない。「あれ(息子)も戦争に出てから変わった」と寂しくつぶやくだけである。推測だが、信吾らの世代には、息子たちの世代を戦争へ追いやってしまったという、負い目があるのではないだろうか。渡辺崋山の絵を見ながら、友人が「崋山の様な事で切腹しなければならないとすると、僕らは何べん切腹しなければならないかしれないよ」という場面がそれを暗示している。信吾が不意に息子に対して「お前戦争で人を殺したかね」と訊ねる所は、出勤途中という日常的場面の中で交わされる会話にしてはあまりにも衝撃的であり、この小説の中で最も印象に残ったセリフである。
あと、これは蛇足だが、「保土ヶ谷駅と戸塚駅の間の長丁場」という記述が2,3度出てくるが、その後東戸塚という新駅が出来て、今では巨大ショッピングモールと超高層マンションが林立するニュータウンになっており、隔世の感がある。