車谷長吉は逆。自分自身と登場人物を対峙させ、ぶつかっていく勢いで物語を作っている風さえ感じる。これは生き難いだろうなと思ったら、やっぱり精神やられてしまった。
徐々におかしくなる自分の精神を見つめている表題作「飆風」は書き殴った感さえ受けるのに、読むのを止められない。小説としての完成度というカテゴリーを越えて読者をひきつけるそのエネルギーに脱帽。
・・・私は私であることが不快なのです・・・
車谷さんはこの「不快である私」の身を削るように小説を書いていきます。
小説を書いたあとには屍が転々と転がっているのではないかと思えてしまうほど、「私」を痛め、交わりのあった他者(実名)をあばいていきます。
第三者の読み手からみると、俗ぽいのですが、スキャンダラスなものを感じ得ずにはいられません。読み手は、純文学を読んでいるつもりが(確かにこれは分野的には純文学だと思うのですが)いつのまにか‘事の真相’にため息をつきつつページをめくる手が早まっていきます。
もしこれが車谷さんの手ならば、物凄い凄腕作家であるといえるでしょう。
読み手のげすな好奇心をみたしながら「己の精神を追い込み、崩壊していく様を曝した」最後の私小説。
たいしたものだとおもいます。
・・・なぜ私が人間としてこの世に生れて来たのかをいくら考えても、分からない・・・この次ぎ生れて来るときは・・・出来れば人間に厭がられる蛇に生れて来たかった。・・・蝮のような毒蛇に・・・
車谷長吉さんは業の深い、福田和也さんが仰るようにスタイリストで上手い作家だといえます。これは作家として最高の資質だと思います。