読売新聞入社早々に社会部のエースとなった著者は、数々の名文を世に放ちました。中でも「黄色い血追放キャンペーン」は社会的影響が大きい記事でした。
キャンペーン開始の昭和39年当時、日本の輸血用血液は99.5%は買血でした。生活のために血を売る日雇い労働者たちが供給源です。頻繁な採血によって赤みを失い黄色っぽくなった血液は「黄色い血」と呼ばれました。
この血液を輸血した患者は20%以上の確率で悪質の血清肝炎にかかります。こんな危険な状態を放置しておけない、と若き日の著者が社会正義に燃えて立ち上がりました。何も改革しようとしない厚生官僚やリベート漬けの医療関係者を相手にキャンペーン記事を書き続けます。
当時の厚生官僚は、「宗教心のない日本人に献血は不可能」と言いました。しかし、キャンペーン開始2年足らずで約50%の血液供給をするまでに達し、とうとう昭和44年に保存血液の売血は完全に消滅しました。
著者が敢えて自慢話を書いたのは、「善意と無限の可能性を信じる集団」だった「社会部が社会部であった時代」のことを知ってもらいたいからです。
読売新聞社会部は、その頃から社会部らしくない兆候が現れはじめます。社主の正力松太郎氏が新聞事業に関係ないゴルフ場・読売ランドに力を入れる様子を、何の抵抗もなく社会面に載せていました。
「社内に言論の自由がなくて、どうして日本の言論の自由を守れるか!」と、熟慮の末、著者は抗議の意を込めて会社を辞めました。せめて会社の風土に一石を投じたはずだったのですが、その後、ナベツネが登場し、もっとひどい状況になったそうです。
最後まで社会部記者の矜持を保っていた著者。その誇りあるジャーナリストを「拗ね者」と自嘲させてしまうような現代社会の風潮とは何なのか。自分自身が、その浅薄な風潮に流されていないだろうか。
考えさせられる一書でした。