『南蛮討伐』と『篇外余録』
★★★★★
吉川三国志には、2つの謎があります。文学史に興味のない方には関係がありませんが。南蛮討伐と篇外余録の2つのパートです。前者には、発表当時の「現代史」に伏在する課題が批評されています。後者には、作者のすさまじいまでの英雄否定、超人否定の精神が示されています。『新・平家物語』でもそうでしたが、作者は偉人を描いて、同時に偉人を殺します。
所々で「なんか残念」
★★★☆☆
確かに面白いのですが、「三国志本」としても「文芸書」としても中途半端な印象を受けました。
「良い点」は他のレビュアーの方々が沢山書かれているので、
個人的に「残念だった点」を書かせていただきます。
・途中で終わる
三国志の最後まで描かれていません。諸葛孔明が死んだ時点で終了しています。
理由は「これ以降は面白くないから」。これには驚きました。
「三国志」というタイトルなのだから、題材とした三国志の最後まで書き切って欲しかった。
私は「三国志本」として最後まで読みたかったので、がっかりです。
・著者のコメントが本文中に出てくる
一般的に「あとがき」に書かれるような内容が、本文中にちらほら出てきます。
物語に集中しているところに水をさされたようで、いい気持ちはしません。
(もともと新聞で連載していたものを数冊の本にまとめたものであり、
巻ごとの「あとがき」は存在し得ないので仕方がないのですが…。)
仮にも描いているのは「物語」なのですから、
著者の解釈による説明など、本文中に堂々と挿入するものではありません。
また、死んだ人物が後の戦で再登場、なんてミスがあるのも残念な点です。
とはいえ、読んでよかったと思うのも事実。
「三国志本」や「文芸書」としてではなく、「吉川氏の文章」と割り切れるのなら
良いのではないでしょうか。
『篇外余録』なき吉川三国志は吉川三国志にあらず
★★★★★
1989年5月15日リリース。『五丈原の巻』と『篇外余録』からなる。最近五巻に編集され直したものはこの中の『篇外余録』をカットしてしまったとんでもない代物で、真の吉川三国志を読了するためには、旧来の真摯に作者の意図に作られた八巻建てのものを選択することが必定だ。こういう勝手な再構成がまかりとおる講談社の体制はただ嘆かわしい、とまずは申し上げておきたい。『篇外余録』は『諸葛菜』・『後蜀三十年』・『魏から--晋まで』からなる後日談・エピソード集にあたるもので、諸葛孔明の死をもって自身の三国志の投了とした吉川英治の意図に基づき別立てとした三国志の一部であるのに無理解極まりない編者である。
有名な『泣いて馬謖を斬る』のエピソードはこの『五丈原の巻』の前半に登場する。それも諸葛孔明の数多あるエピソードの一つに過ぎない。この稀代希なる真の軍師の人間性この『五丈原の巻』に極まる、と思える。前半のような群雄割拠とは大きく異なり、託すべき人材のなさに苦しむ孔明の姿は、天才軍師も人無くして、一事は達し得ないことを感じさせる。
時に神格化され、あたかも霊能力者のようにも書かれ、諸葛孔明という人に対する中国国民の思い入れが随所ににじんだラストである。
孔明に尽きる
★★★★★
第8巻は、玄徳亡きあと孔明が主人公。またかつての三国志の英雄たちもなきあと、司馬仲達との戦いが続く。孔明の一つ一つの策が、現代のビジネスや人生観につながる。
まさに格言に近いと思います。三顧の礼から、天下三分の計〜、関羽、張飛、超雲らの優秀なプレーヤーとエース玄徳を盛上げる名参謀。まさにいろんな場面で「孔明ならどうしたか?」と考えてしまうケースもあるでしょう。
三国志という物語を超えてしまった感がありますが、最後まで主を想い、国を想う彼の一途な
「志」は今の時代に必要な「気概」だと思うのは自分だけでしょうか。また吉川三国志を読む機会を持ちたい。
諸葛菜
★★★★★
孔明が死ぬまで中原征服に向けてまい進しついにこれを果たせず死んでいく巻。
原書のひとつである三国志演義では司馬氏率いる晋に三国が統一されるまでを記述しているが、吉川英治の三国志は孔明の死とともに物語が終わっている。
孔明ほどの天才軍師でも中原征服をなしえなかったことに非常な残念さを感じつつ物語が終わってしまうが、篇外余禄に孔明の人となり、その後の歴史が記載されている。
この中で、「諸葛菜」は孔明のひととなりについて著者が考察を行っており、非常におもしろい。
豊臣秀吉をひきあいに出し、孔明ほどの天才でも、天才であり完璧であるがゆえ優秀な人材が他国に比して集まらなかったのでは、という考察には非常に納得感を感じる。
8巻読みとおしてみた感想として、諸葛孔明の偉大さが印象深く残る物語である。