出産がすむとナポレオンはその愛妻の枕頭(ちんとう)に立って蒼(あお)ざめた唇に接吻した。彼女の命が安全と見極めのつくまでは、生まれた子供には見向きもしなかった。
それは男の子であった! しかし息が止っていた。医師の介抱(かいほう)で嬰児(えいじ)が生き返って、わっと泣くと、ナポレオンは走りよって、その子を自分の腕にとりあげた。熱い涙がとめどもなく彼の頬から流れ落ちた。長い歳月の危険な生涯、それはただ愛児に大帝国を残したいばっかりだ。その子がおまえなのか。
いんいんたる砲声がパリ満城にひびきわたった。二十一発なら皇女、それより多ければ男子だ。チュルリー宮殿の正面に集まった幾万の群衆は砲声を数えた。十八、十九、二十、二十一、そうして二十二! そのとき期せずして万雷のごとき歓呼が起った。
鶴見祐輔『ナポレオン』ではこんな文章が読めます。余計な言葉はいりません。すばらしいの一言でしょう。