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魔の山〈上〉 (岩波文庫)

価格: ¥1,296
カテゴリ: 文庫
ブランド: 岩波書店
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人間的な成長とは何か ★★★★☆
「魔の山」は、T・マンの中期の小説であるが、投稿者は、その「実験空間」に、人生の終点としての、死を待つ雰囲気を感じてしまう。初期のトニオ・クレーゲルにしても同様だ。芸術家的気質の孤独な青年の危機を描き、青年は、静かに人生の生きるに値する道を求めている。「もしも、あの時風が吹いていたら、私はこの世に居なかったろう」と謂う様な、あぶない状況にあって、「健康で青春の輝きに溢れた」友人達の姿を見ているのだ。

「魔の山」の前書きの中で、マンは、この物語が遠い昔、そう、一次世界大戦の前の世界で起こった物語だと謂っている。そして、物語では出来るだけ遠い昔である事が、益々完全になり、御伽話めく事になり、都合が好いとまで謂っている。「遠い、遠い、昔とは、未来の事である」という諺があるが、ここでは、事実、時計で測った時間とは関係が無い。この物語、そして、こころの中で起こる時間というものは、地球の自転時間や公転日数で計る事は出来ないと云うのだ。

物語は、山麓の結核療養所である。ここで死ぬ者も、社会に復帰する者も、我々が、日々暮らしている日常の時間という尺度とは、異なった時空に存在している。たましいの邂逅という内面の時は、物理的時間とキッチリと対応の付くものではない。物語は、些事が続き長い、大スペクタクルを、お求めの方には向かないだろうが、本当の人生は、大スペクタクルではなく、日常の瑣末な事実の集積にあり、未来は、遙かに見えないけれど、振り返る人生は短い。テーマは異なるが、マルセル・プルーストの「失われた時を求めて」も、膨大なページ数を費やし、足った一つの、マドレーヌの味覚の下に続く、真に生きた時間の意味を象徴的に表現した、こころの時と懐かしい記憶の物語としてある。これも同じ範疇入る文学であろうや。
とんちんかんなレヴュー ★★★★★
 ハンス・カストルプとショーシャ夫人との片言での語らいが、どういうわけか、私の目には、大変、魅力的に映った。
 あるいは、これは、私の好きな太宰、その小説、「右大臣実朝」の実朝の言葉の影響かもしれない。アカルサハ、ホロビノ姿デアロウカ。人モ家モ、暗イウチハ、マダ、滅亡セヌ。という言葉に代表されるように、作中において、実朝の言葉は、片仮名交じりで表記されており、実朝が普通の人間とは違う次元にいる住人であることが、まず目を通して、次に耳を通して、――それは、片言の日本語だ――肉感的に伝わってくる。
 お互いがお互いの〈自分語体系〉を発見しようと努めること、それが、美しいコミュニケーションの方法である、と私は思っている。これを実践したのがハンス・カストルプとショーシャ夫人とである。
 私のおぼろな記憶が確かならば、ショーシャ夫人は、ハンス・カストルプの母国語に合わせて、片言で言葉を発する(あるいは、逆であったかもしれない)。相手が話す言葉に、自分を合わせようとする、しかし、そこにはぎこちなさが残っている、何とも味わい深い場面である、と私は思う。相手に近づきたい、でも、どうしても、届かない、その微妙な距離が、片言の言葉によって、見事に表現されている。しかし必ずしも、別に母国語が異なっている必要はない、方言・標準語の差異も問題ではない。私たちは、一人ひとり、〈自分語体系〉を持っている。それは、フロイトによって示された、〈自由連想法〉が導き出す、その人しかもっていない、言語体系だ。たとえば、私の場合は、太宰といえば、キリストを、キリストといえば、架け橋を、架け橋といえば、サイモン&ガーファンクルを連想する、という風な。
 私は、やはり、自身に〈外国人〉を感じている。カタカナデ、書コウカシラ?
 
教養小説って響きは堅苦しいけど ★★★☆☆
学業を卒業し、職場に勤務するようになる直前、
ぼんやりと無気力に陥っているハンス・カストルプは、
気晴らしと療養を兼ねて、従兄弟の居る山奥のサナトリウムに滞在することを勧められる。
山では下界と違った時間が流れ、病人たちが日々独特の生活を送り、
その大抵のものは長く留まりすぎて下界に帰るところをなくし、魔の山の住人となってしまう。
山を下りたがる者、山を出入りする者、山で死ぬ者、山で諭す者、
あらゆる登場人物がそれぞれ教訓となっている。
ナフタとセテムブリーニの論争、特にナフタの発想は面白かった。
教養小説と言われてますが、正直難しかったです。
文章に読み難さを感じなければ、大半は山で繰り広げられる
ドタバタコメディーだと思って気軽に読めます。
買いですが・・・。 ★★★★☆
トーマス・マンの代表作と目される「魔の山」の岩波文庫版で、かつては四巻で出ていたのを上下二巻に分けたものですが、四巻で親しまれた方も多いのではないでしょうか。題名の「魔の山」とは山麓のサナトリウムの別名です。物語は展開としてはたいへん平易で、ハンス・カストルプという青年がサナトリウムに入所している従兄のヨーアヒムを当初三週間の予定で訪れ、そこで目にし接する人間模様が描かれているだけです。しかし、その描き方は写実的かつ丹念を極め、本作が見るからに分厚い大作であるのはひとえにそれに由来しているといっても過言ではありません。加えて、ハンス・カストルプが出会う、たとえばセテムブリー二を始めとする人物は、そのサナトリウムという閉ざされた環境ゆえ自家撞着を来たしているかのように螺旋状に複雑であり、その言動は必要以上に難解に説明的です。つまり、誤解を恐れずに言えば、読者はハンス・カストルプを視点に、多くの自閉的な人物の言動に付き合うことを余儀なくされ、それをいかに根気よく続けることができるか、その根気がどれだけ持続的で精緻であることができるか、その一点にこの作品をうまく読みうるかどうかがかかっている作品であると言えるのではないでしょうか。しかし、本巻最後3ページのハンス・カストルプの、ストーカーかつパラノイアかつ変質的な長台詞は、600ページに及ばんとする怒涛の細密かつ写実的な描写の果てに、思わず「そんな奴おらへんやろう」とつっこみたくなった一瞬でした。
豊かな無為 ★★★★★
ノーベル文学賞も受賞した、ドイツの大作家、トーマスマンの小説です。
この作品は、ドイツ教養小説の金字塔とされています。(教養小説とは、主人公が様々な経験を通して、成熟に至る物語という程の意味でしょうか。)

内容とも重なるので、長期休暇に読むのにうってつけの本だと思います。
(体は温泉やマッサージで癒して、心はこの本でリフレッシュするという感じで)

僕は、読んだ後に、「豊かな空虚」とでも言うような充実感を味わいました。

この作品に対する批判として、
「書かれる空間が狭く閉鎖的で、長いわりに何も起こらずイライラする。単調でつまらない」
というものがあるかと思います。

確かに物語は、スイスの療養地とその周辺というごく狭い場所での出来事がほとんど全てで、
また結局7年強の時間が小説の中で流れているにもかかわらず、起こることといえば、従来の患者の日常と、新たな患者の登場ということがメインです。(もちろん、最も多く書かれていることは主人公ハンスカストルプの生活です。)

しかし、それらの設定はもちろんマンによって企まれたものであって、下界と隔絶されたスイスのサナトリウムという空間でしか描き出す事の出来ない、
穏やかで単調でありながら緊張感を孕んだ時間の流れを、見事に書ききっていると思います。

我々は「何も起こらない」→「時間の無駄」と感じがちですが、「無為」を肯定的に扱う事も可能である(可能であった)という感慨を持たせてくれたのは、僕にとって新鮮な体験でした。
個人的には、滞在しているうちに、どんどん療養所の「魔の時間の流れ」に魅せられていく、ハンスカストルプの体験が身につまされて感じられました。
(誰でも、ほんの少しお遊びでいるつもりが、のめり込んで抜け出せなくなる経験を持っていると思います。)

好き嫌い・向き不向きのある小説であるということは確かだと思います。
この小説を素晴しいと感じ、擁護したい僕は、(あえて刺激的な事を言えば)読むために、読んで楽しむためには、
ある「資格」のようなものが必要かも知れない小説だと言いたいと思います。

思えば、「魔の山」は、「貴族」という今は無き階層が、まだそれほど遠くない所に感じられた時代に書かれた小説なのです。

時計の針を気にせずにいられない(僕もそうですが)、何かとせわしない現代社会にすむ我々にとって、貴重な時間体験をさせてくれる小説だと思います。