買いです。
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ずいぶん時間をかけて読了しました。ペーペルコルン氏の登場で、それまでハンスの教育者的役割を担っていたナフタとセテンブリーニの影が急速に薄くなっていったので、このままハンスが感化されておしまいかと思っていたら、「人物」であるはずのペーペルコルン氏は内在した矛盾によって自らの命を絶ち、そしてナフタもペーペルコルン氏の存在によってより先鋭化された思想の帰結として死に至ります。結局物語の冒頭で「平凡」の烙印を押されたハンスは無事「魔の山」を下りますが、そのハンスも戦火に飲まれ・・・とあらすじを述べるタブーを犯してしまいましたのは、こういった要約を読んだ上でも揺らぐことのない物語世界が本書に構築されていることを確信しているからです。ドイツ教養小説の名で語られることが多いですが、その実読まれることが決して多くはないであろう本書は、その他の多くの、いわゆる「名作」と呼ばれる作品群にあってとりわけ現代と通底した作品であるように思われます。個人的なことですが、読み進めていきながらいつの間にかセテンブリーニに深いまなざしを向けている自分に気づいて、20数年間、田舎の女子高で国語を十年一日のごとく教える我が身が思い返されて、思わず苦笑をもらしてしまいました。
〈雪〉の洗礼
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雪山での体験は、ハンスに何をもたらしたのか? 私は知らない。
しかし、〈雪〉の白さは、人間の頭の中を、心の中を、真っ白にしてしまうエネルギーを秘めているのではないか。〈雪〉は、人間の心を、頭をリセットする、――それは、象徴的な死ではないか。そうして、象徴的死のあとにやってくるのは、象徴的生だ。
雪とけて村いっぱいの子供かな 一茶
太宰治「惜別」を思い起こす。「惜別」の「周さん」(若き日の魯迅)は、「雪も消え」たころ、幻燈事件を最後のきっかけとして、弟ともに、民衆の精神改革を目的とした文芸運動を起こす決意を固めている。雪が消えた、ということはつまり、「周さん」は幻燈事件が起きるまで〈雪〉に囲まれていた、と言い換えることができる。「周さん」の心のうちにあった〈雪〉は、幻燈事件によって、とかされ、彼は新しく生まれ変わったのだ。
吉田和明氏の説も思い起こす。氏によれば、太宰「富嶽百景」において、主人公〈私〉の〈富士〉に対する認識がマイナスからプラスへと変化するきっかけとして、〈雪〉が登場している、という。一般に「富嶽百景」は、安定期とされる中期における初期に書かれた作品である。太宰は、あるいは、自分の文学史における節目節目で、作品を読みとく鍵として、〈雪〉を登場させたのかもしれない。ことに、「富嶽百景」が、主人公が山に登り、降りるまでの話として読めるとすれば、「魔の山」との相似関係に気づかされるだろう。太宰はあるいは、「魔の山」を意識しながら、「富嶽百景」や「惜別」を書いたのかもしれない。
恐ろしく長い、そして圧倒されるばかり
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この恐ろしく長い小説を読みながら常に感じた事は、
本書が非常にヨーロッパというものを意識して書かれているという事である。
小説の舞台となったスイス高原のサナトリウム「ベルクホーフ」自体が、
様々な国々から療養患者が集まるヨーロッパの縮図の様であり、
そこでは様々な言語が飛び交い、各国を代表する登場人物たちが風刺的に描かれている。
主人公の青年ハンス・カストルプを挟んで、人文主義者のセテムブリーニと非合理主義者ナフタによって
延々と繰り返される論争に接して、私はヨーロッパの思想史の深淵にただ圧倒されるばかりであった。
だがそんな二人の論争を沈黙させてしまうペーペルコルンの神秘的な力に主人公は傾倒していく。
このペーペルコルンという登場人物の意味するものは何なのか良くわからないが、
トーマス・マン自身も当時の思想界での論争に行き詰まりを感じていたのだろうか?
本書はその様な難解な話ばかりではなく、主人公とロシア人のショーシャ夫人との恋愛のエピソードもあって、
それはそれで十分に楽しめる。
終り近くの「ひどくうさんなこと」という題名の章では超能力少女が登場して、
主人公の死んだ従兄を呼び出す実験を行なったりするが、
人々がスピリチュアルなものに惹かれてしまうのは、当時の大戦前の不安定な世相を反映しているのかも知れない。
そして現在のスピリチュアル・ブームについても十分注意した方が良いと感じたのだが、どうだろうか?
日本人が全く知らない世界−−例えば172ページを読んでみよう。
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この小説を読んで痛感する事は、私達日本人は、ヨーロッパの歴史など知らない、と言ふ事である。我々が信じて居る書かれた歴史などとは違ふ歴史が、ヨーロッパには有った、と私は、思ふ。ほんの一例だが、この本のこの箇所を読んで欲しい。(以下引用)−−キリスト教徒の二人の子供が謎の死をとげたことから民衆運動と暴動が起こったとき、エリアは惨殺され、燃えさかる彼の家の入口のドアに釘ではりつけにされたのであった。妻は肺を病んで寝ていたが、幼いライブと四人の弟妹をつれて、六人がそろってさしあげて号泣し哀泣しながら国をあとにしたのであった。(本書172ページより)−−これは、登場人物の一人であるレオ・ナフタの父親とその家族の歴史に関する一節で、レオが幼少の頃、東欧で、彼の家族に起きた悲劇を語った箇所である。例えば、ここには、私達日本人が知らないヨーロッパの歴史の一面が描かれて居ないだろうか?−−これは、この小説のそうした側面のほんの一例である。
悪魔を意識しながら、教会を建設し、革命を実行して来たヨーロッパの精神史を裏側から知る為に、私達は、この黙示と呼ぶべき小説に取り組み続けなければならないだろう。
(西岡昌紀・内科医)
トーマス・マンの時間芸術(下)
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筋書はハンス・カストルプというハンブルクの青年が友人が入院しているスイスのサナトリウムに三週間の予定で見舞いに云ったら、どういう訳か自分が病人であることになり、数年もそこで入院する羽目になり、そこでの体験、特異な思想を持った様々な人たちとの出会いにより、精神的な成長を遂げるというものである。小説の技巧に会話、説明、描写という三要素がある。会話は登場人物のやり取りを記述する等速運動である。説明は「あれから3年たった」という記述により、時間を加速させたり停止させたりする。そして描写は登場人物の外面的、内面的な特徴を記述したり、小説の舞台装置を詳述し、その多大な文章量で時間を減速させる。本作品では主人公がサナトリウムに到着した最初の数日の描写が三分の一以上占められており、あとはあっという間に数年が過ぎ、最後は時間の流れそのものが停止する。時間芸術と呼ばれる小説の特性を駆使したマンの職人芸が発揮された作品である。