読まないと意識しないこと
★★★★☆
プラトンの著作物は理想世界や抽象的な概念(イデア)を説明していますが、順序的に次に来るアリストテレスは、より現実的なことを論じていると言われています。しかし、プラトンの考えの方が模式図にしやすくて、たとえ話も多くて、言いたい内容は分かりやすい気がします。
アリストテレスはまさに学者的な論述スタイルで、事物をしっかりと分類し、疑問点を挙げ、古い考えの誤りを訂正していきます。
存在とは何か。「ある」とはどういうことか。徹底的に議論しようじゃないか、といった態度が伝わってきます。
今まで、「存在」とは、物体を細かくしていって何物が残るか、という理系的な感覚でいました。でも「存在すること」というのは「存在すること」の意味とか意義とか、人間が事物を説明するときに使う言葉のほとんどに、共通意識として何かの現象があったり、認識しているその物の量とか性質が、ある条件である状態みになっていることを前提としていて、人間にとって意味のあるものになるのだなあと思ったりしました。
「一」の意味とか、物がそのものであることとかに疑問がでてきました。異様な感覚が。日常で「あれとこれは同じだ」と、簡単に言ってるのは、他人とのコミュニケーションを成立させるためにあるもので、本来、一人の人間は意識する必要がないことかもしれないし、同じこと(=統一性)とはどういうことを意味するか、すごくマジメに考えてない気がします。
読みながら、もっといろいろ浮かんでは消えていった不思議な考えもありました。
正直、わけが分からない部分が多く難儀しましたが、古代の哲学者の考えたことを少しでも追体験できたかなと満足でした。
中世哲学者・神学者のトマス・アクイナスがアリストテレス研究家だったというので、「神は存在するか?」という、キリスト教以前の神学的な考えが書かれているかと期待しましたが、あまり論理的な追究はなかった感じでした。神様の存在が問題にならなかったのでしょうか。
( =ω=.)<昔の人間の頭脳の限界・・・・・。
★★★★☆
( =ω=.)<アリストテレスか・・・。
全てを知ろうとしたケド・・・結局、何も知れなかった男。
(;//Д//)<でも、その思想は2000年近くもの間、信じられてきたんだよね。
中世ヨーロッパではアリストテレス哲学こそが真理だと言われてたんだから。
( =ω=.)<あの当時に生まれたのは不幸だネ・・・結局、世界をデタラメに解釈して
全てを分かったつもりでいたんだから・・。
(;//Д//)<所詮、人間は1人で世界の全ての体系をまとめ、それを知る事は出来ないんだよね。何か一つに特化しないと・・・。
アリストテレスに限らず、数多くの哲学者達は、世界の全てをまとめようとしているケド・・
どだい・・人間には時間も限られているし、限界もあるんだからね。
( =ω=.)<それだけ世界が単純だったんだろうネ・・彼らの時代は・・・
('・ω・`)<・・・でもアリストテレスさんの気持ち・・ちょっとだけ分かるなぁ・・
私も適当な理由をつけて、諦めたら安心するもん。
頭脳の限界
★★★☆☆
「すべての人間は、生まれつき、知ることを欲する」という一文で始まるアリストテレスの論文を集録した十四巻にわたる書。哲学の最も根本的な問題の探求をし、第一の哲学を説く。全て存在するものの存在である、実体について解明し、自然を、そして不動の実体である神をも哲学の研究対象として論理を展開していく。
これほど難解な文章を読んだのは、はじめてかもしれない。すべての存在するものの存在を考察し、それは存在論であり実体論であり、それが形而上学である。
レポートを書くために参考書を片手に実体についての7巻、8巻を繰り返し読んだ。あるところでは実体と本質は別のものであるとしているのに、違うところでは実体=本質とされてもいる。前後の文章を読んでも定義の違いだけではないようだし…。原語の古代ギリシア語の解説をされても理解できないよ。
でも単純な感想だけど、アリストテレスは偉大な人だと思う。自然学や物理法則に関係する天文学においては、現代ではアリストテレスの説は否定されている。だが存在を問うアリストテレスの思想は、二千年の時を越えて今もなお生きている。
事物規定
★★★☆☆
物事を規定するときに、どのようにしてその事物を描写するか?今現在では科学が発達して、物の細部まで構成が分かるようになりましたが、私が昔にさかのぼって同じ目線で物を観察したとき、小学生なみの表現しか浮かびません。エンペドクレスの「火」「土」「水」「空気」という発想でさえも浮かばないと思います。けれども、カテゴリー化、類の概念くらいは見つけられたかもしれません。原初にかえって考えてみると、当たり前に考えていることが本当に容易ではないのだと感じます。存在者(オン)とは何か?存在(ウーシア)とは何か?
この問い自体もっとも古くてもっとも新しい問いだと思います。事実存在(エッセンテイア)以上に本質存在(エクステイア)は、人間のそれこそ実存に関わる問題です。
「そのものの実体であるというのは、これがそのもののまさにそれであるそれ(そのものの本質)であるとの意であった」、「或るものの本質というのは、そのものがまさにそれであるところのそれのこと」と、世界に向けられた目は単なる物の表層ではなく、根本的な洞察になっているように見受けます。
さらに物事を明確に定義するのだという意識が伺われます。「矛盾的に対立する判断が同時に真であるということはない」それは、言葉の意味の誤謬、錯乱、乱用を回避し、事物定義を確固として構築しようとしなければ出てこない言葉だと感じました。
理想の哲学の教科書のために
★★★★★
世の中について,自分について考えるため,それも家庭や学校や職場で,意識するしないにかかわらずすり込まれるさまざまな思想,意見,イデオロギーの透明な道路標識や鎖を断ち切って,原理的に考えるために役立つような,思考の道具とその使い方の訓練が記された,理想的な哲学の教科書があったらいいのにと思う。アリストテレスの『形而上学』は,そうした自分なりの教科書をつくるための最良の拠り所ではないか。それが,文庫でいつでも入手できるのは,たいへん喜ばしい。
残念なのは『自然学』が文庫化されていないことだ。生成消滅,増減,変化,移動など,動かされ動かしあうこの世の事物についてはとくに,形而上学と自然学は連なっている。自然学は形而上学の基礎ともいえる。是非,『自然学』も手に届きやすいように文庫化してほしい。