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旧約聖書 創世記 (岩波文庫)

価格: ¥660
カテゴリ: 文庫
ブランド: 岩波書店
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詳しい注釈がありがたい ★★★★★
 何年か前、宗教的というより文学的興味で聖書を読み通したことがある。一度や二度読み通したところでわかることは多寡が知れているだろうが、過去を振り返るとキリスト教とのかかわりが少しはあったものだから、読まないよりはいいだろうと思って読み通した。そのとき心に残ったのは、キリスト教で言うところの旧約聖書の部分だった。約束の実現、律法の成立から王国と神殿の建設、神への離反が引き起こす王国の滅亡、神殿の破壊、バビロン捕囚、その運命を嘆く言葉と神への立ち返りと、全体に暗い雰囲気ながら、神を希求し神を畏れながらも時に神を忘れてしまう人々の生きているさまがとても克明に描かれていて、物語としてとても緊迫していたのがうっすら記憶に残っていた。最近岩波書店の講座・東洋思想の第一巻「ユダヤ思想1」を読んでいて、この著書の訳者である関根正雄さんの論文があったので久しぶりに読み返してみようかと、岩波文庫版の本書を手にとってみた。

 この文庫が他と違うところは本文のほかに詳しい注釈が付せられているところで、解説も同様に詳しい。ありがたいのはよく言われる複数の執筆者の担当箇所を具体的に節ごとに教えてくれることで、それに従って蛍光ペンで色分けするとどこがヤハウェ資料なのか、どこがエロヒム資料なのか、どこが祭司資料なのか、そのほかの資料なのかが一目瞭然になる。他にも、平凡な表現に見える言葉に思いもかけない深い意味があることも伝えてくれるのがいい。共同訳を読むだけでは気づかないことを色々と気づける。

 内容については読めばそれぞれの人に感じることがあると思うが、後の書に比べて民間伝承のような面白みのあるエピソードが多いので、細かいことを考えずに読むのも愉しい一冊になっている。

 
初心者にもオススメ ★★★★☆
私のように宗教に関して勉強したことがなくても、旧約聖書とはどんなものかを知るにはいい本だと思います。
ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の共通の経典である旧約聖書。
これを読むとといかに宗教戦争がむなしいものであるのか感じられます。

日本書紀や古事記、ギリシャ神話と比較して読むのも面白いですね。

岩波文庫だからといって、経典だからといって堅っ苦しいと思わず、
どんなものなのか知りたいという好奇心だけで読み始めてイイと思いますよ。
『聖書』から出たものは、『聖書』に還る。 ★★★★★
 学生の頃、私は、こんな話を聞いた。
 バベルの塔が建設されていた頃、世界には、たった一つの言語しか存在しなかった。誰が名づけたのか、それは、<純粋言語>と呼ばれている。たった一つの言語しかなった。ために、潤滑なコミュニケーションが可能だった。人類は、知恵においても、根気においても、力においても、神のようになったのである。そこで神は、人々の言語をばらばらにし、コミュニケーションの断絶を図り、人類の結束をほどいた。これが、<バベルの塔>の挿話である。
 ここで私が問題にしたいのは、<純粋言語>という概念である。<純粋言語>は、星にたとえられる。<純粋言語>と言う名の星が光を放ったのは、気が遠くなるほどの、はるか昔である。その光は、『聖書』の逐語訳によって、その姿を現すことがある、という。
 そんな話を、私は聞いたことがある。『聖書』から出たものは、『聖書』に還るらしい。
 ばらばらになった言語たち、ひいては、諸民族を、再び結びつけるのが、イエス・キリストなのではないか。イエス・キリストは、あるいは、<純粋言語>の体現者なのかもしれない。
 太宰治の短篇小説に、「佳日」がある。作中で主人公が、酒を<しっかり>飲め、とすすめられる場面がある。太宰はその習作時代に、<すっかり>を<しっかり>と記述していた。この事実にかんがみると、主人公は酒を<すっかり>飲め、とすすめられていた、と推定できる。今私は、方言を標準語に<翻訳>したことになる。ここで私は問いたい。太宰は、なぜ、わざわざ、方言を作品に登場させたのか。この問いに私は、こう答える。太宰は、国際間の友好関係を、キリスト教を中にして、築こうとしていたからである。
 ミルトン『失楽園』において、キリストは<仲保者>、(<とりなし>とルビが振られている)と呼ばれている。彼は、神と人とを結ぶ、<愛>と<言葉(ロゴス)>による、架け橋だからであろう。ところで、「佳日」の主人公は、彼の友人である大隅とその婚約者との間における、<仲保者>の役割を果たしている。これは、二人、三人、我(キリスト)が名によりて集まれるところには、必ず、我もまたあらん、という聖句のメタモルフォーゼである。さらに、主人公と大隅との<仲保者>として、共通の恩師である瀬川先生が登場している。<恩師と弟子>。これは、『聖書』におけるキリストとその弟子との関係のメタモルフォーゼである。以上のことから、太宰「佳日」にはキリスト教文学としての側面が存在している、と私は思う。
 藤原耕作氏によれば、中国で働く大隅は<中国>側の主張を、日本にいる主人公は、<日本>側の主張を体現しているのだという。ここで、大隅の婚約者もまた、<日本>側の主張を体現している、と想定してみる。すると、どういうことが起こるか。<日本>側の主張と、<中国>側の主張とが、主人公と、瀬川先生、二人の<仲保者>――二人は、キリストの似姿だ!――によって、結合を果たす。つまりは、キリスト教を中にして、日本と中国とが友好的に結びつく、そのような含意が託されているのではないか。
 ちょっと、待ってくれ。その話と、方言と、どう結びつくの? 結びつくのである。この方言を発したのは、大隅の婚約者の父親である。主人公には、この方言が通じなかった。この事実から類推されるのは、大隅の言葉が、婚約者には通じないのではないのか、という危惧である。大隅は五年間、中国で生活をした。また彼は、該博な知識を武器に、威張りたがる癖がある。したがって、彼は婚約者に通じない、中国語で話しかけてしまうことも、あるいは、あるのではないか。このような言葉の壁に対する危惧は、しかし、無用である。小説のラストに、こうある。
 大隅君の表現もまんざらでなかった。かれは涙を流しながら笑っていた。
 「惜別」の「周さん」(若き日の魯迅)は言う(詳述は避けるが、「惜別」と「佳日」とは兄弟のような関係にある)。人間の生活の苦しみは、ひとえに愛の表現の困難にあるのではないのか、と。「佳日」の大隅は、まんざらじゃない、愛の表現を示した。〈涙を流しながら笑〉う、という彼の二重性を帯びた表現は、言葉の二重性――方言と標準語、日本語と中国語――と呼応している。大隅は、言葉の壁を見事な愛の表現によって、乗りこえるだろう。<純粋言語>の体現者たるイエス・キリストのとりなしによって。
部族の繁栄とともに、契約や所有が強調されている点が意外 ★★★☆☆
旧約聖書を構成する39書の冒頭である。

この文庫版で150ページ程度の書物の中に天地創造、人類の始まり、アダムとイブ、アダムとイブの楽園からの追放、ノアの箱船、バベルの塔、ソドムとゴモラの滅亡、部族の発生などのエピソードが含まれている事がまず驚きである。信仰に関わらず、これらの内容は漠然と知ってはいたが、実際に読んでみるとそれぞれの記述が意外なほど短くて簡単なことに改めて驚かされる。
全体を通して神との契約、神による導きや恵みに満ちているのだが、それが信仰を通してと言うよりも、神から持ちかけられる契約であることが多いのが気になるところではあった。契約と土地や財産の所有と言うことが強調されるのは、すごく場違いな感じさえする。

部族の繁栄を記述する部分は正直言って退屈である。長命の登場人物が登場するあたりや、計略によって他の民族や兄弟を陥れるところはギリシャ神話と同じく神話の域を出ないように感じられた。

あんな話しやこんな話しがこの中に ★★★☆☆
天地創造、エデンの園からの追放、ノアの洪水、ソドムの滅亡など、誰もが一度は耳にしたことのあるような物語はこの旧約聖書開巻第一の書「創世記」に全ておさめられている。民族の分布や、系図などいったい何なんだと思うような箇所もあるし、旧約聖書といえばキリスト教、イスラム教、ユダヤ教の聖典であるが、とりあえずどの宗教を信じているかなど関係なく、勿論無心論者の人も一度は目を通してみるとなかなか面白い発見などもあり有意義だと思う。