無用の書
★☆☆☆☆
言葉をもてあそんで読者を煙にまく事を目的としており
この本を読んでハイデガーの導入になるとは考えないほうがよい
時間の無駄を実感できる書
正統派ハイデガー入門
★★★★★
がちがち正統派.著者はハイデガーに直接師事していたことがあるそうだ.いままで多くのハイデガー入門書を読んできたが,木田元のものと並んですばらしい出来だと思う.
構成もよく考えられていて,著者が心配するほど難解にはなっていない.無駄に思わせぶりな文章もない.ところどころにウィトゲンシュタインを比較に出しているのも理解を深める助けになる.重要な述語についてはドイツ語から説明してくれるところもよい.Sein zum Endeを従来のように「終わりへ至る存在」と訳すのは誤訳だという話は興味深かった.
ただレベルを落とさずに書かれているので,なれない人はとっつきにくいかも.
時間という光のもとで
★★★★☆
何冊か読んだハイデガー哲学への入門書のなかで,一番心に残りやすい本であり,ハイデガーをひとまずおいても,哲学的に考えるためのヒントがいくつか与えられるような,すぐれた本だと思う。他のレビューを読むと,ずいぶんむずかしそうに書いてあるけれど,哲学素人のぼくがよんだかぎりでは,そうは思わなかった。ハイデガーばりのねちっこい文書も,いかにもハイデガーを読み込んだ研究者ならではという感じがして,面白かった。
何かを見るには,見るものと見られるものとのほかに「光」が必要である。われわれが存在者(存在するもの)を認識するにあたっても,認識者と存在者があるだけではだめで,「光」に相当する第三のものが必要だ。ハイデガーはそれを「時間」ととらえた。ただしハイデガーの時間観において重要なのは,現在でも過去でもなく将来である。将来重視の「時間」という光にもとで,われわれは「存在者」をとらえる。こうした「見られるもの−見るもの−光」という三者構造が,ハイデガー存在論では「存在者−存在−(存在の)意味」となっている。という理解が本書のハイデガー把握の基盤のようだ。
なぜ「時間」が「存在の意味」をもたらすのか,なぜ現在ではなく将来なのか,について,説得力のある説明を読み取れなかったが,それが著者の責任なのか,読み手の力不足のせいなのか,わからない。「存在者」と「存在」の区別については,はっきり不満が残る。アリストテレスの「実体」やトマス・アクィナスの「エッセ(存在そのもの)」との比較などあれば,もっとわかりやすかったと思う。
ハイデガーとウィトゲンシュタイン
★★★★★
ウィトゲンシュタインやヘーゲルに関してもトップクラスの研究書をもつ細川先生のハイデガー本です。
ウィトゲンシュタインに興味のある人ならかなりおもしろいと思いますが、ウィトゲンシュタインをあまり知らないと難しい部分も多々アリ。
といってもその部分が本書でもっとも面白い部分でもあり、本気で取り組むに値する研究書でもあります。
こいつは厄介だ。
★★★★☆
他のレヴュアーの方がこぼしておられるとおり、これは入門書ではありません。私は『存在と時間』を読む以前に本書を読みました。他の入門書も読みました。実際、消化不良に悩みながら、『存在と時間』は読み通しましたし、そのあともハイデガー関連の本を読みました。少しはハイデガーについて知った気になった頃、本書をパラパラ見ていたら、読んだ当時、余白に記入したメモ書きが目に入ってきました。それを読んで自分の無理解さに笑いました。ここに書くのは躊躇われます。トンデモナイ誤解をしていました。
そこは「世界は超越のWoraufhinである」というくだりですが、「世界」および「超越」概念がきちんとできていない限り、さっぱり理解できません。そしてそれらはこれから入門しようという人が適切に理解できるようには書かれていません。私の理解力不足によってちんぷんかんぷんならともかく、誤解させるような書き方はまず失敗です。誰だって普通「世界」がまず存在し、その中に人間が存在していると考えますし、「超越」と言えば(サルトルのように)世界からの超越、あるいは自分の意識を超越するというふうに考えるでしょう。そうした素朴な見方(フッサールの言葉で言えば自然的態度)を変えるための(判断停止、あるいは宙吊りにする)説明がありません。ただ「そういう理解は一般的な誤解なのだよ。ムフフフ」と言うだけです。
しかし、著者も誇らしげに書いているように、「美しい花と健康食品と光」の説明はなかなかよい説明だと思います。これによって「存在論的差異」が理解できるようになります。つまりハイデガーが存在者ではなく存在を問題にしたのだということと、その問いの困難さが理解できます。それでも入門書(しかも新書)としては失格でしょう。