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哲学史講義〈下巻〉

価格: ¥8,208
カテゴリ: 単行本
ブランド: 河出書房新社
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「目的にかなっている」 ★★★☆☆
世評では長谷川訳は読みやすいという。問題はそのとき「何」が読み取られているかだ。たとえばカントの「判断力批判」のところ、zweckmaessigを「目的にかなっている」と訳すが、強い違和感がある。たしかに独和辞典にはそう書いてあるが,カントはそれではすまない。
 人間は「意図(目的)」の介入に敏感である。人とすれ違うとき、肩と肩が当る。うっかり当ったのなら問題はないが、まれに「あれー、こいつ、わざとやったな」と感じることがあるだろう。電車のなかで、誰かの手がかすかに尻に触れるのは、電車の揺れによるものか、それとも「わざと」やっているのか。カントはzweckmaessigと言う言葉で、「或る物,或る事態が、意図(目的)あって、そうなっていること」を表わしている。美は、人間の諸能力がまるで(意図的に)仕組んだかのように調和している状態に他ならない。数学の諸定理の見事な調和もしかり、蝶の羽根の模様の巧妙さもしかり。
 だが「目的あってそうなっている」と「目的にかなっている」は違う。前者の反対は「目的なく(自然に)そうなっている」であり、後者の反対は「目的に反している」であり、一致しない。研究者の「合目的的」と言う生硬で醜悪な訳語は、この差異を忘れないためにある。
哲学史の精華 ★★★★★
「哲学史」を学問の領域の中に位置づけた最初の人はヘーゲルだった。改めて見事だと思うのは、単なる各学派の解説ではなく、著者本人が各哲学の理論を読み解きながら、自身の理論を育成していくかのような、その手腕だ。意識とは常に何かを意識していなければならず、過去の哲学との出会いは、すなわち出会った当の本人の意識が、すぐさま、語りだすことを意味している。そういう意識のあり方に、自覚的であり、且つ、単なる意識の「叙述」ではなく、「哲学」として展開して見せたのが、「ヘーゲルの哲学史」だ。ちょうど歴史を眺めつつ、自身の哲学をそこに展開していったのが「歴史哲学」であったのと同じだ。だが、本書を読むと、ヘーゲルの読み方は世間でそう喧伝されているような自分勝手なそれではない。各時代、各哲学者の理論の展開そのものに気を配り過度な読み込みもせず、きっちりとその本質を描き出している。やはりヘーゲルの得意は、プラトンとアリストテレス、それと近代で、私の知識のせいもあるが、近代についてはさすがと思わせるところが多い。翻訳は革命的なヘーゲルの翻訳で名を揚げた長谷川氏のもので読みやすいもの。日本でも本書に「対抗」して、より「客観的で」「実証的な」哲学史を意図した学者も少なくないが、それらにあたって思うことは、「客観的」とか「実証的」と考えている水準が哲学者とは思えないほど酷いもので、それを読むならやっぱり本書だと却って納得することになる。
ほらと哲学辞典 ★★★★★
カントについて:「みずからのうちに区別を含む先天的な綜合判断、という一般理念の提示はもとより、・・・三位一体の図式がつらぬかれています。(α)理論理性(β)実践理性(γ)両者を統一する判断力、・・・テーゼ(正)、アンチテーゼ(反)、ジンテーゼ(合)の三段階が設定されています。」ヘーゲルは自分の哲学についてはこの図式を用いていないが、カントをこう規定しているのはおもしろい。「第一に来るのが実在ですが、これは意識にとって他なる存在です。たんなる実在とは対象のことです。第二に来るのが自立的存在であり、自分という現実です。物自体を否定するところにその本質があり、自己意識であることがその本質をなす、---関係が逆転したのです。第三に来るのが両者の統一であって、自立した、自己意識された現実が、対象的現実をも、自立存在という現実をも、つつみこんで、真の現実となります。」2500年の歴史はヘーゲル哲学へと向かって進んで来ます。うそであってもこれほど歴史のうちに整合性を読み込んだものはみあたりません。どうせうそをつくならこれぐらい大きいほうがよい。批判のしがいもあるというものです。

ただ、索引がついていないのが困ります。もしついていたら、世界で最良の哲学事典になるはずです。ヘーゲルがどんなに自分の用語で語ろうと、当の哲学者はちゃんと自分を主張しています。けっして個性がなくなることはありません。

清水幾太郎がいうように、訳者よりも読者のほうがより深く読むこともあります。一度しか出てこない場合には、その理解には苦労するでしょうが、その点ヘーゲルは重要なことは何度も何度も繰り返し語っています。ということはそこには、思いつきではなく、論理の一貫性が貫いていることを示しています。翻訳が少しぐらいおかしくても、論理を追っていけば、理解できるものです。それを翻訳のせいにするのは読者の怠慢です。