カントについて:「みずからのうちに区別を含む先天的な綜合判断、という一般理念の提示はもとより、・・・三位一体の図式がつらぬかれています。(α)理論理性(β)実践理性(γ)両者を統一する判断力、・・・テーゼ(正)、アンチテーゼ(反)、ジンテーゼ(合)の三段階が設定されています。」ヘーゲルは自分の哲学についてはこの図式を用いていないが、カントをこう規定しているのはおもしろい。「第一に来るのが実在ですが、これは意識にとって他なる存在です。たんなる実在とは対象のことです。第二に来るのが自立的存在であり、自分という現実です。物自体を否定するところにその本質があり、自己意識であることがその本質をなす、---関係が逆転したのです。第三に来るのが両者の統一であって、自立した、自己意識された現実が、対象的現実をも、自立存在という現実をも、つつみこんで、真の現実となります。」2500年の歴史はヘーゲル哲学へと向かって進んで来ます。うそであってもこれほど歴史のうちに整合性を読み込んだものはみあたりません。どうせうそをつくならこれぐらい大きいほうがよい。批判のしがいもあるというものです。
ただ、索引がついていないのが困ります。もしついていたら、世界で最良の哲学事典になるはずです。ヘーゲルがどんなに自分の用語で語ろうと、当の哲学者はちゃんと自分を主張しています。けっして個性がなくなることはありません。
清水幾太郎がいうように、訳者よりも読者のほうがより深く読むこともあります。一度しか出てこない場合には、その理解には苦労するでしょうが、その点ヘーゲルは重要なことは何度も何度も繰り返し語っています。ということはそこには、思いつきではなく、論理の一貫性が貫いていることを示しています。翻訳が少しぐらいおかしくても、論理を追っていけば、理解できるものです。それを翻訳のせいにするのは読者の怠慢です。